スポンサーサイト

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    • 2016.04.04 Monday
    • -
    • -
    • -
    • by スポンサードリンク

    徹人28人 ぁ 繊〔邯英世 〜

    0

       野口 英世(のぐち ひでよ、1876年明治9年)11月9日 -1928年昭和3年)5月21日)は、日本細菌学
       


       1876年11月9日、福島県生まれ。猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学の研究に主に従事し、黄熱病梅毒等の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年5月21日、アフリカガーナアクラにて51歳で死去。


       栄典は、正五位勲二等旭日重光章学位医学博士京都大学)、理学博士東京大学)。称号ブラウン大学名誉理学博士イェール大学名誉理学博士パリ大学名誉医学博士サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監名誉大佐キリスト教信者


       
      1876年明治9年)11月9日 - 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に野口佐代助・シカ夫妻の長男として生まれ、清作と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名)。




       1877年(明治10年)4月1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する。


       1883年(明治16年三ッ和小学校に入学。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される。


       1889年(明治22年)猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する。


       1891年(明治24年)左手の障害を嘆く彼の作文が、小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。この手術の成功に感激した事がきっかけで医師を目指す。



       1893年(明治26年)猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(現在の東京歯科大学)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う。


       1896年(明治29年)小林らから40円もの大金を借りて上京。医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験筆記試験に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。その結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。後期試験臨床試験は実際の患者を相手に診断をするもので、独学が不可能であったため、医術開業試験予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功。済生学舎(現在の日本医科大学)近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。



       1897年(明治30年)臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。その結果、打診が可能になり後期試験にも合格。21歳で医師免許を取得した。医師免許取得後、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から、開業医の道を断念。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。


       
       
      1914年(大正3年)東京大学より理学博士の学位を授与される。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。




       
      1915年(大正4年)9月5日- 年老いた母との再会を果たすため、15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。またこの際にワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉井戸泰の研究および伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察している。以後、彼は日本に帰国していない。2度目のノーベル医学賞候補となる。


       1918年(大正7年)ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。野口に黄熱の臨床経験はなく、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後(日数については諸説あり)には病原体を特定することに成功しこれをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。(ただし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。後年アフリカの研究で野口は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている。)この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。英世の母シカが死去。


       1920年(大正9年)ペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与。リマ滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。


       1923年(大正12年)7月 - 英世の父・佐代助が死去。11月 - 日本の帝国学士院会員となる。ジャマイカ・キングストン「熱帯病会議」にて鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行う。ここでキューバの研究医アグラモンテより、黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うのみではないかと指摘を受ける。会議後アグラモンテを招き自らの研究結果を見せ説得を試みる。



       1924年(大正13年)アフリカ・セネガルにて黄熱病が発生、イギリス、フランスの研究施設より野口ワクチンが効果を見せずイクテロイデスが発見されない旨の報告を受ける。ロックフェラー国際衛生局がナイジェリアのラゴスに黄熱病対策組織として医学研究所本部を設置、野口の部下であるイギリス出身の医学者エイドリアン・ストークス博士を派遣するも同様の研究結果となる。


       1926年(大正15年)ペルー疣とオロヤ熱が同一病原であることは1885年にペルーの医学生、ダニエル・アルシデス・カリオンが証明していたが、アメリカの学会の一部で否定されていた。これを病原であるバルトネージャ菌分離と猿による実験で証明し、論争に終止符を打つ。南アフリカ出身の医学者マックス・タイラーらが、黄熱ウィルスの単離に成功。黄熱病についての野口説(イクテロイデスが病原であること)を反証する。


       1927年昭和2年)トラコーマ病原体を発表する(ただし、後年クラミジアが発見され否定される。)。ロックフェラー医学研究所ラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で死亡。10月 - アフリカへ黄熱病研究のため出張。11月 - イギリス領ガーナアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない野口に、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部から病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続く。


       12月26日 - ウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受け血液を採取に行く。




       1928年(昭和3年)1月2日 - 野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し入院(ただし、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられる)。1月9日 - 回復し退院、研究を再開する。3月末、フレクスナー宛にイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出す。秘書への手紙に濾過性微生物(ウィルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定。4月 - フレクスナー宛にアメリカで研究を継続したいため、5月19日にアクラを発つと打電。5月11日 - ラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調を悪化。5月13日 - 黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度かかったのを不可思議に思い)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされている。


       5月16日 - 回復し、空腹を訴える程食欲も戻る。その旨はフレクスナーにも打電される。


       5月18日 - 病状が再度悪化。


       5月21日 - 昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じた。野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された。(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)


       6月15日 - アメリカのニューヨークウッドローン墓地に埋葬される。


       

       ランキング 応援お願いします!

            
      人気ブログランキングへ
      にほんブログ村 ポエムブログ 自作詩・自作ポエムへ
                                              にほんブログ村


      ODA (織田信長生誕説) 5

      0
         
         

        愛西市の学芸員である石田氏は、当時の勝幡城周辺における文化にも注目しています。



         山科言継の日記「言継卿記」は当時の食生活や文化を知る上で貴重な史料です。言継らが勝幡近辺へ招かれた際の記録をみると、家臣平手家に招かれた際、その家の茶室をみて「驚目」というように、「驚目」という表現が各所にみられます。

         当時の一流の文化人である彼らを驚かせるほどこの地域文化が展開していたことをみることができましょう。地方文化というとややもすると低く評価されがちですが、当時の一流の文化人を驚かせるほどこの地域の文化が展開していたことはまさに「驚目」といったところではないでしょうか。


         余談になりますが、平手家の茶室の存在から、織田家内に茶道が展開していたことが想像できます。のち信長の政策において「茶の湯」政道なんて表現が用いられたりするように茶の湯を重視したことは皆さんご存知だと思いますが、「三つ子の魂百までも」ではないでしょうが、幼い頃からこうした環境下にあったことは大きな要因であったように思われます。



        にほんブログ村 ポエムブログ 自作詩・自作ポエムへ                               
         にほ んブログ村 
         人気ブログランキングへ ランキング 応援お願いします!
         
        もんきーそふと


        ODA (織田信長生誕説) 4

        0


           引き続き愛西市の学芸員・石田氏の説をつづってみましょう。


           

          天文元年当時今川竹王丸は存在しても、今川氏豊なんて人物は存在しなかったことになります。

           つまり、天文元年に信秀が今川氏豊から那古野城を奪い取ることはできません。今川氏豊から奪い取るためには、竹王丸が元服する天文5年以降のことでなければ辻褄が合いません。天文2〜3年の頃というのは、勝幡には織田信秀が在城し、那古野には今川竹王丸が在城していたことは明らかで、1534(天文3)年5月に誕生した信長は那古野で生まれたのではなく、勝幡で生まれたと考えるのが妥当ではないでしょうか。



           このような学説を基に愛知県愛西市では、「勝幡城 織田信長生誕の地」としての広報活動に取り組んでいます。
           

          にほんブログ村 ポエムブログ 自作詩・自作ポエムへ                               
           にほ んブログ村 
           人気ブログランキングへ ランキング 応援お願いします!
           
          もんきーそふと


          ODA (織田信長生誕説) 3

          0

             

            愛知県愛西市の学芸員・石田氏の説をつづってみましょう。



            まず古渡出生説について・・・信秀が古渡城を築城し、信長に那古野城を譲って古渡へ移ったのであるならば、信長は古渡城築城時には信長はすでに存在しており、古渡城出生説はありえません。



             次に、那古野城出生説と勝幡城出生説について・・・そもそも那古野城出生説というのは、天文元年に信秀が今川氏豊から奪い取ったことが唯一の根拠でした。しかし、天文2年段階に勝幡の地を訪れた山科言継の記録をみると、当時信秀は勝幡にいましたし、勝幡城へ当時那古野にいた今川竹王丸(12歳)が勝幡を訪れています。

             この今川竹王丸が元服してのち今川氏豊と名乗るようになったといわれております。したがって、天文元年当時今川竹王丸は存在しても、今川氏豊なんて人物は存在しなかったことになります。



             つづきは次回に。。。
             

            にほんブログ村 ポエムブログ 自作詩・自作ポエムへ                               
             にほ んブログ村 
             人気ブログランキングへ ランキング 応援お願いします!
             
            もんきーそふと


            ODA (織田信長生誕説) 2

            0

               

               織田信長の生誕地といわれる「勝幡城」について、愛知県愛西市学芸員 石田泰弘氏の学説を基に紹介したいと思います。愛西市佐織公民会館「歴史資料室」に所蔵されている「尾州古城志」という資料には信長が天文三年(1534)五月廿八日に勝幡の城において出生したと記されており、石田氏はこの文献と出逢い、「織田信長出生考」をまとめ、論文として世に送り出しました。少しだけ、紹介します。




               信長の祖父信定は、対津島の前衛基地として勝幡城を構築しました。大永年間に津島を攻めましたが、陥れることができなかった織田氏は、次に「おくらの方」を大橋家に嫁がせ縁戚関係を築き、津島を掌中におさめました。津島を掌中におさめた勝幡織田氏は、津島の経済力を背景に台頭していきました。

              信長の父信秀が、勝幡城から、今川氏豊を攻め那古野城を手中に入れ、信長に那古野城を譲り、新たに古渡城を築きそちらへ移ったといわれています。そのような頃信長は誕生しました。

               そのため信長出生については、古渡城出生説、那古野出生説、勝幡城出生説がありました。



               つづきは次回に。。。
               

              にほんブログ村 ポエムブログ 自作詩・自作ポエムへ                               
               にほ んブログ村 
               人気ブログランキングへ ランキング 応援お願いします!
               
              もんきーそふと


              ODA (織田信長生誕説)

              0

                 

                彼の生誕、少年時代のことはあまり知られてない。『尾張の大うつけ』と言わしめた彼の素行は生涯にわたると言える。


                 

                 織田信長は大名家の生まれではない。信長の父、信秀は尾張国半分をやっと支配する織田達勝3奉行のひとり。彼は、その家来のせがれということになる。信長のライバルだった今川義元、武田信玄、上杉謙信、さらには、近畿の諸大名に比べかなりのハンディがあった。

                 

                 この話は、知っている人は知っている話なのですが、織田信長の誕生した場所は『勝幡城』です。


                 

                 勝幡城は、今でいう愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町にまたがった地に築城されました。城跡は領内側、日光川、三宅川合流点に位置し、現在は日光川で分断され、平和町側に2つの石碑等が残されています。どちらかと言えば、城跡の土地的には稲沢市です。しかし、勝幡という名前が付いている以上、愛西市としてもほかっておくわけにはいかないと思います。ましてや、この「勝幡城 信長生誕説」を発信したのは、愛西市の学芸員さんです。



                 今日はここまでにして、また後日・・・。

                 

                にほんブログ村 ポエムブログ 自作詩・自作ポエムへ                               
                 にほ んブログ村 
                 人気ブログランキングへ ランキング 応援お願いします!
                 
                もんきーそふと


                | 1/1PAGES |

                PR

                calendar

                S M T W T F S
                1234567
                891011121314
                15161718192021
                22232425262728
                293031    
                << October 2017 >>

                ローカルテキスト

                 

                見つけよう!Amazon

                ドリームポケット

                ゴールデンアイ

                レインボーマップ

                recent comment

                recent trackback

                profile

                search this site.

                mobile

                qrcode

                powered

                無料ブログ作成サービス JUGEM