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    • 2016.04.04 Monday
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    情景描写と心理描写

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       音楽の 様々なジャンルの中も

       情景描写と 心理描写に 大きく分けれるのではないかと想う

       これは 私の 「私的音楽論」です


       情景描写の代表として上げられるのは 松任谷由美さん

       特に 初期の ”荒井由美時代”の曲は その傾向が強い
       
       私の上げる代表曲は 
      「入江の午後3時」

       目をつぶり この曲を聴くと まざまざと その光景が 思い浮ぶ


       心理描写の代表は 中島みゆきさん

       代表曲として上げるのが 
      「わかれうた」

       目を閉じて この曲を聴くと メラメラともえあがる           

       怨念さえも 聞こえてくる


       しかし その多くは簡単には 分けられない

       情景と心理が入り混じって 交錯する

       心理が先か 情景が先か 卵が先か ニワトリが先か

       どちらにしても 出来上がりが 肝心

      奇跡のカンパネラ

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        イングリット・フジ子・ヘミング(Ingrid Fujiko Hemming)
        の名前を

        ご存じの方は多いと思う。彼女のピアノの音色は独特で、その生い立

        ちと重ね合わせて見たとき、さらにその思いは深まるはずだ。音という

        ものに命があるとすれば、まさに彼女の音色そのままである。私は、プ

        ロの音楽家でも評論家でもない。だだ、単なる彼女のファンである。芸

        術を語る時、そのものを評価することはできない。ただ、自分にとって

        好きか嫌いかは言うことができる。私は、彼女のピアノの音色が好き

        だ。自分自身が色々な事で頭がいっぱいになったとき、自分自身に自

        信が持てなくなったときに、彼女が日本で初めて出したCD
        『奇跡のカ

        ンパネラ』
        を目を閉じて聞いていると、こころが落ち着き、勇気が湧い

        てくる。クラッシックを聞くことが人の心にとって非常に良い関係である

        ことは実証済みである。フジコ・ヘミングウェイの人生は、まさに天国か

        ら地獄、そして、奇跡の復活を成し遂げる。”奇跡のカンパネラ”を聞く

        時、自分自身も奇跡を起こすと勇気づけられる。日本の政治リーダー

        の方たちも、時にはクラッシックにも耳を傾け奇跡の決断を断行してい

        ただきたい。

         レディー・ガガ

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           レディー・ガガ(Lady Gaga)ことステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタ(Stefani Joanne Angelina Germanotta )(1986年3月28日 )は、アメリカ合衆国音楽家。身長155cm。19歳の時にデフ・ジャムと契約し、ニューヨーク市の近郊のクラブでダンサーをしながら生計を立てた。また同時期インタースコープ・レコードとソングライターとして契約をし、同レーベルのアーティストを中心に複数のミュージシャンに楽曲提供を行った。その後楽曲提供を行う中でエイコンにガガの歌手としての才能を認められ、エイコン自身のレーベルコンライブとレコード契約し、歌手としてのキャリアをスタートさせた。



           
          イタリア系アメリカ人でインターネット企業の実業家の家庭のもと、ニューヨーク州ヨンカーズに生まれる。家は裕福で箱入り娘として育てられる。


           4歳で楽譜なしでピアノが演奏できるようになる。父親が初めて聴かせてくれたレコードはスティーヴィー・ワンダーであり、その後ブルース・スプリングスティーンの曲などをピアノで練習するようになる。多くの有名アーティストを手掛けた先生からレッスンを受けるようになり、13歳になるころには初のピアノ・バラードを自分自身で作曲。11歳当時にジュリアード学院の音楽部門に合格するも、当時は音楽にさほど興味が無く入学を辞退し、マンハッタンのカトリック系の私立学校、Convent of the Sacred Heart(聖心女子学院)に通う。同学校はヒルトン姉妹パリスニッキー)も在籍していたお嬢様学校だが、パリスとは6歳年が離れており学年が異なる為、学校の廊下で見かけたことしかないという。伝統的な富豪家庭のお嬢様が多く通う中、ガガは1代の成り上がりの家だった為周囲に馴染めなかった。さらにガガは変わった性格で、話し方も大胆で芝居じみていた為学校でいじめに合い、ロッカーには悪口が書かれ、廊下では常に「売女」と言われたという。街で男子に同級生の目の前でゴミ箱に捨てられたこともあり、「アンタ泣くわけ?哀れよね」と笑われ、ガガも自分自身を笑うしかなかったという。14歳からニューヨークのクラブでパフォーマンスを開始し、17歳で、これまで世界で20人しか早期入学が許されていないニューヨークにあるティッシュ・スクール・オブ・アート(ニューヨーク大学の芸術学部)に入学する。そこで彼女は音楽を本格的に学び、エッセイや論文を書くことによって作詞作曲技術を改善した。この頃から地味だったクラブのパフォーマンスも個性を追求するたびに派手になっていき、大学でも奇抜なスタイルにより周囲から煙たがられる存在となる。周囲から「あなたってレズビアンなの?」「そんな恰好をしたって、誰もあなたなんて見てないのよ」と言われ続けたと後にインタヴューで語っている。結局ガガは大学1年生のときにニューヨーク大学を退学し、ドラッグ中毒に陥ってしまう。しかしブリトニー・スピアーズビヨンセに触発され、スターになるという夢を再確認したガガは自らの意思でドラッグをやめ、芸術活動に専念するようになる。


           ガガは19歳の時、
          デフ・ジャム・レコーディングスとの間で契約を結んだ。同じころ、親元を離れストリップクラブで働き出す。このことは特に隠さず、「ストリップクラブで働いていた。私のような裕福なイタリア系の家庭の出では珍しいことだ」と述べ、ストリッパーとして生計を立てていたことを明かしている。ストリッパーとして人気があったようで、ステージでヘアスプレイに火を付けて、狂ったように踊ったという。家族の助けなしに生活することで自由を実感したと語るが、家族は認めてくれなかった。その他、ドラァグ・クイーンゴーゴーダンサーとパフォーマンスを行うためにクラブに出入りしており、このことを知った父は大変なショックを受け、ガガ本人も「あのとき、2、3カ月の間父は私を直視することが出来なかった」と認めている。ガガの初期に制作された楽曲に携わった音楽プロデューサーのロブ・フサーリはガガの声のスタイルをフレディー・マーキュリーのそれと比較し、クイーンの楽曲「Radio Ga Ga」をもじり、現在の芸名"Lady Gaga"を彼女に与えた。また、ガガがスタジオに来るとき挨拶代わりにフサーリは『Radio Ga Ga』を歌った、それはガガの入場曲のようなものであったという。ある時、フサーリがガガに送ったメールの中で書いた「Radio Ga Ga」という文が、修正機能で「Radio」が「Lady」になり、「Lady Ga Ga」になってしまった。しかし、それを大変気に入ったガガが「二度と私をステファニーと呼ばないで!」と言ったため、以後「レディー・ガガ」と呼ばれるようになった。


           
          2007年にインタースコープ・レコードとソングライター契約し、同レーベルに所属するファーギーブリトニー・スピアーズプッシーキャット・ドールズニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックエイコンといった有名アーティストに楽曲を提供した。制作者として活動を続けていたときにエイコンがガガには制作者としてだけではなく、歌手としての才能もあると認め自身のレーベルコンライブとアーティスト契約を締結。エイコンはガガについて、「類稀な存在」「ダイアモンドの原石」と表現している。ガガはデビュー・アルバムの制作を音楽プロデューサーレッドワンと共に行った。1年ほどスタジオに籠って作詞作曲に専念し、アルバム150枚分ほどの楽曲を制作したという。


           2008年にデビュー・アルバム『
          ザ・フェイム』をリリース。彼女自身が全ての歌詞を手がけ、メロディー作曲も自分でこなし、シンセサイザーの部分も自らが演奏している。『ザ・フェイム』は、オーストリア、イギリス、カナダ、アイルランドチャートにて1位を獲得。アメリカ合衆国とオーストラリアでは最高位4位を、日本では最高位6位を記録している。全世界での売上枚数は1200万枚を突破している。アルバムからのリードシングル「ジャスト・ダンス」は2008年4月8日にリリースされ、世界各国で首位を獲得。「ジャスト・ダンス」は、イギリスなど世界5カ国のシングルチャートで1位を獲得し、リリースから半年以上経った2009年1月にアメリカでも1位に到達した。


           2009年2月に行われた
          第51回グラミー賞では「ジャスト・ダンス」で最優秀ダンス・レコーディング賞にノミネートされるも、ダフト・パンクの「仕事は終わらない」が受賞し、ガガは受賞を逃している。「ジャスト・ダンス」は全世界で700万枚以上売り上げるヒットとなった。続いて2008年にリリースされた「ポーカー・フェイス」は2009年4月11日付けのアメリカ合衆国のシングルチャートBillboard Hot 100で1位となった。これによりガガは2000年以降、デビュー・アルバムから2枚のシングルを全米チャート1位に送り込んだ初の新人アーティストとなった。1st、2ndシングル2枚で全米1位を達成した女性新人アーティストは3人で、ガガはティファニーマライア・キャリークリスティーナ・アギレラに次ぐ4人目となった。この楽曲はイギリス、カナダ、オーストラリアを始めとした世界17の国と地域のシングルチャートで1位を獲得している。また、「ポーカー・フェイス」はヨーロッパ全土を対象にしたシングル・チャートEurochart Hot 100 Singlesでも16週にわたって1位を記録。さらにイギリスのThe Official Chart Companyが発表した"イギリスで最もダウンロードされた曲"では77万ユニットのダウンロード数により1位を獲得している。「ポーカー・フェイス」は全世界で1000万枚以上売り上げ、2000年代を代表する楽曲となった。


           2009年5月、有力な音楽雑誌『
          ローリング・ストーン』の毎年恒例となっているHOTリスト号の同誌6月号の表紙をセミヌード姿で飾った。この時ガガは同誌のインタビューの中でバイ・セクシャルであることを告白した。ガガは6月にリリースされたラッパーワーレイのシングル「チリン」にも客演で参加している。7月にはイギリスで「パパラッチ」をシングル・リリースしている。MTV Video Music Awards 2009でガガは、この楽曲を含む同年のアワード最多となる合計9部門でノミネートを受け、9月に行われた授賞式では『パパラッチ』のライブ・パフォーマンスを披露した他、「ポーカー・フェイス」での最優秀新人アーティスト賞を含む合計3部門で受賞。加えて、米ビルボード誌主催のWomen In Musicアワードでは新人賞にあたるRising Star賞を受賞している。


           11月に2枚目のアルバム『
          ザ・モンスター』を発表。全世界で600万枚以上売り上げ、2010年世界で最も売れたアルバムとなった。しかしガガは再発盤のリリースはファンにとってフェアではないという理由から否定的な立場で、そのため『ザ・モンスター』には新曲をたくさん収録する予定であると話している。この再発盤からの1stシングル「バッド・ロマンス」は『サタデー・ナイト・ライヴ』にて初披露されている。同番組ではマドンナとパフォーマンスを披露している。同年10月10日にHuman Rights Campaignのデモ行進に出席。行進前に「音楽業界には未だ多くの同性愛嫌悪が存在する」とスピーチ。「今夜は自分の曲は演奏しないの。私のための夜ではない」と述べ、グランドピアノに座る前に「あなたたちのための夜だから」と言って、ジョン・レノンの「イマジン」を一部歌詞とメロディーを変えて披露した。また、1998年に殺害された同性愛者の大学生マシュー・シェパードへのメッセージを込めた。「バッド・ロマンス」はアメリカ、オーストラリア、アイルランドなでトップ10入り、イギリス、カナダ、スウェーデンなどのチャートで1位を獲得し、全世界で980万枚以上売り上げた。『ザ・モンスター』の収録曲「スピーチレス」は2009年12月11日に行われたロイヤル・ヴァラエティ・パフォーマンスで披露した。そこでは、エリザベス女王と対面した。2009年の暮れにThe Monster Ball Tourをスタートさせた。


           2010年1月14日、Monster Ballツアーのウェストラファイエット公演を体調不良のために中止した。彼女は本番前に呼吸がしにくいことを訴えた。救護隊員はガガは脱水症状と疲労による不整脈で苦しんでいたと発表した。同年1月31日に行われた
          第52回グラミー賞にて初のグラミー賞を受賞した。「ポーカー・フェイス」で年間楽曲賞、年間レコード賞、最優秀ダンスレコーディング楽曲賞にノミネートされ、最優秀ダンスレコーディング楽曲賞を受賞した。アルバム『ザ・フェイム』は最優秀エレクトロニック/ダンスアルバム賞を受賞した。2010年3月15日、『ザ・モンスター』からのシングル「テレフォン」がイギリスなどで1位、アメリカで3位、アメリカのポップソングチャートにおいて1位を獲得した。これによりガガと同曲でフィーチャーされたビヨンセは6曲の全米1位シングルを持つことになり、過去最多の全米1位獲得シングル保持者であったマライア・キャリーと並んだ。「テレフォン」は全世界で700万枚以上売り上げた。


           2010年3月19日、『ザ・フェイム』のプロデューサーでガガの名付け親でもあるロブ・フサーリがアルバム制作に関する報酬を受け取っていないとして、利益の20%を支払うようにガガを訴えた。同年8月にニューヨーク最高裁判所は訴訟を棄却、その後、両者は和解した[。同年4月16日、YouTubeにおけるガガのミュージックビデオの累計再生回数が10億回を突破し、同サイトの新記録を樹立した。同年4月、『ザ・モンスター』からの3rdシングル「アレハンドロ」を発表し、ロザリオを口に入れるシーンが宗教冒涜として問題となった。同月、アメリカの雑誌『タイム』が世界で最も影響力のある有名人100人を選出する「タイム100」のアーティスト部門で1位になった。MTV Video Music Awards 2010では9部門にノミネートされ8部門を制する大勝利を収めた。



           2011年
          2月11日、ガガが絶賛するシングル「ボーン・ディス・ウェイ」が解禁され、世界23ヵ国のiTunes音楽チャートでダウンロード数1位を記録した。特にアメリカでは配信後3時間で1位を獲得した。また、UKアルバム・チャートでは21万5,000枚を売り上げトップを飾った。2011年最速セールス記録となっている(2011年5月現在)。批評家やファンからはマドンナエクスプレス・ユアセルフ」と酷似しているとの声も挙がったが、ガガは「この曲はマドンナのサポートを受けている。女王様がいいと言えばそれでいい」と述べた。第53回グラミー賞授賞式ではガガは卵型カプセルに乗ってこの曲を歌い上げた。また、グラミー賞授賞式前には大麻吸引を自ら暴露し「ファンに嘘はつきたくないし、最近は大量には吸引していない」と語った。5月23日には3rdアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』が世界同時発売され、それに先駆けてアルバムからの2ndシングル「ジューダス」が4月16日に、3rdシングル「ジ・エッジ・オブ・グローリー」が5月17日に発売された。『ボーン・ディス・ウェイ』は全世界で800万枚以上売り上げ、2011年世界で2番目に売れたアルバムとなった。


            ガガはプロモーションとして世界中を飛び回り、6月20日には日本に4回目の来日を果たした。
          auのCMでガガの曲が使用されたことや、東日本大震災においてチャリティーリストバンドを即座に販売して収益を寄付したことで知名度が急上昇し、ガガの来日は大きく報道された。震災復興イベント「MTV VIDEO MUSIC AID JAPAN」では蜘蛛の巣パフォーマンスでスタジアムを沸かせた。8月23日にはガガが最も尊敬する世界的ロックバンドのクイーンのギタリストであるブライアン・メイとのコラボ作「ユー・アンド・アイ」が4thシングルとしてリリースされ、多くの国でTOP10入りを果たした。MTV Video Music Awards 2011では2冠獲得し、ステージ上でブライアン・メイと「ユー・アンド・アイ」を披露した。この頃、デビュー時からガガと共に仕事をこなしてきた振付師のローリーアン・ギブソンと決別した。ギブソンは振り付け以外にもビデオの監督や楽曲のプロデュースを手掛けていたが、互いの方向性の違いにより距離を置くという選択を下した。11月にはアルバムからのラストシングルとなる「マリー・ザ・ナイト」をリリースし、ガガ自らビデオの監督を務めた。ビデオではガガの半生を描いており、話題となった。


           最近、巷ではガガは「マドンナ」を抜くことができるかと言う様な報道を見たり、耳にすることがある。全く、ナンセンスとしかいいようがない。こうした世界に名をはせた一流のアーティストをある一定の基準で比べる事などできない。「マドンナ」は「マドンナ」であり、「ガガ」は「ガガ」である。こうした有り触れた評価しかできない評論家に「芸術」を語る資格はない。 

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          忘れられない曲 No.2

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            小学2年生ぐらいだと思いますが、流行りましたね。よく、真似して

            歌ってました。子供心に天国って楽しい所なんだなぁ、と思ってまし

            た(笑)(^-^)/


            091205_18_帰って来たヨッパライ
             
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            忘れられない曲

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               「忘れられない曲 No.1」


              時代は、かなりタイムスリップするんですが、もう一度改めて、小学

              1年生に戻って進んで行きます。隣りの家にとんちゃんというお姉さ

              んがいて佐良直美さんの大ファンでした。この曲でレコード大賞を取

              った時、すごく喜んでいたのを思い出します。。。

               

              心に残る歌声 〜 オリビア・ニュートン=ジョン 〜

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                 オリビア・ニュートン=ジョンAO, OBE(Olivia Newton-John, 1948年9月26日 - )はイギリス生まれ、オーストラリア育ちの歌手実業家。1970年代から1980年代半ばにかけて数多くのヒット曲を放ち、世界的な人気を博した。現在もレコーディング、コンサート、自社ブランドのオーナーなど、多方面で活躍する。本来はオリヴィア・ニュートン=ジョンだが、日本では通常オリビア・ニュートン・ジョンと表記している。



                 
                イングランドケンブリッジ生まれ。母方の祖父はアインシュタインとも親しかったドイツのノーベル賞受賞物理学者マックス・ボルン(Max Born)、ウェールズ人の父親はケンブリッジ大学のドイツ語教授であった。5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族とともに移住。14歳の頃から学友とバンドを組んで、バーなどで歌い始めた。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。




                 クリフ・リチャードのバック・コーラスなど下積みの時期がしばらく続いたが、1970年にヴァル・ゲスト監督による『オリビア・ニュートン・ジョンのトゥモロー』Toomorrow で映画主演し、歌も披露。1971年ボブ・ディランジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー『イフ・ノット・フォー・ユー』If Not For You がヒットしたのをきっかけにスターの階段をのぼり、可愛らしいルックスとカントリー系の素朴な路線で着実に人気を集めた。1973年頃よりMOR、コンテンポラリー色を強め、1974年のシングル『愛の告白I Honestly Love You が全米1位を獲得、グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀女性歌唱賞に輝いた。1975年にアメリカに移住した後も『そよ風の誘惑』 Have You Never Been Mellow などのヒットを連発する。



                 女優としては1978年のミュージカル映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演。興行成績は大成功を収め、サントラからも『愛のデュエット』、アカデミー賞歌曲賞候補となった『愛すれど悲し』、『想い出のサマー・ナイツ』が連続ヒットし、押しも押されもせぬ世界的なスターとなる。1980年の映画『ザナドゥ』に主演。興行成績は不発に終わるも、サントラ曲『マジック』、ELOとの『ザナドゥ』、クリフ・リチャードとのデュエット『恋の予感』(日本ではシングルにならず『春風の誘惑』Suspended in Time がシングル・カット)がヒット。トラボルタと再度共演した『セカンド・チャンス』のサントラ曲『運命のいたずら』、『ディスペレイト・タイムス』といったヒットを挟み、アンディ・ギブと『愛は微笑みの中に』など、AOR系のデュエット曲を発表。


                 1981年にはロック色を強め、アップテンポなディスコ調の『フィジカル』をリリース。全米でビルボード10週連続1位、キャッシュボックス8週連続1位、1982年度の年間チャート1位という爆発的ヒットを記録する(エアプレイ中心のラジオ&レコーズでは『フィジカル』は1位にならず、ビルボード、キャッシュボックスで『フィジカル』に抑えられ2位どまりだったフォリナーの『ガール・ライク・ユー』が逆に1位を独走していた)。当時のフィットネスブームを意識しミュージックビデオではレオタード姿でエアロビクスを踊るという強烈なイメージ戦略があたり、オリビアのセールスはこの頃にピークを迎えた。しかし、その意味深な歌詞のせいもあって、保守色の強い州南部などの一部の放送局では、この曲の放送を自粛する動きも見られた。



                 1985年のシングル『ソウル・キッス』がミディアム・ヒットに終わってセールスが一段落すると、結婚生活に入り、音楽界と若干の距離を置く。その後、出産、乳癌手術などを経て、環境保護活動やがん啓蒙活動といった社会運動に取り組みはじめ、ユニセフ親善大使もつとめた。


                 1994年の音楽界復帰後は定期的なライブツアーを行なうほか、2000年シドニーオリンピック開会式で「Dare To Dream」を披露した。


                 『
                グリース』で共演したジョン・トラボルタとはその後も良き友人である。また、カーペンターズカレン・カーペンターとも友人であった。



                 『オリビアを聴きながら』 - 作詞・作曲が尾崎亜美で、杏里が最初に歌った楽曲で、歌詞に Making Good Things Better と出てくるのはオリビアの歌『きらめく光のように』 Making A Good Thing Better を複数形にしたもの。


                 乳癌の患者であった。自ら簡易乳癌検査器具(触診用)のリヴエイドをプロデュースした。製造はシルバー精工。また、オーストラリア国内にがんセンターを設立する予定である。


                 







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                心に残る歌声 〜 サイモン&ガーファンクル 〜

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                   サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel, サイモンとガーファンクル)は、1960年代に活躍した、ユダヤ系アメリカ人ポール・サイモンアート・ガーファンクルによるポピュラー音楽ユニット。
                   


                   1964年にデビュー、1970年に活動停止。しかし、それ以後も折に触れて2人で活動している。1990年ロックの殿堂入りを果たした。


                   
                  ニューヨークの小学校時代からの親友だった、ポールとアートは、1957年に「トム&ジェリー」を結成(ポールはジェリー・ランディス(Jerry Landis)、アートはトム・グラフ(Tom Graph)という芸名を使用)し、デビュー曲「ヘイ・スクールガール(Hey, Schoolgirl)」を小ヒットさせた。その後、2人は大学での学業に専念するが、1963年に再びコンビを組み、1964年にグループ名をサイモン&ガーファンクルと改めて、アルバム『水曜の朝、午前3時(Wednesday Morning,3A.M.)』でデビューした。




                   しかし、発売初年度の売上が3,000枚と惨憺たるものであったので、ポールはヨーロッパ放浪の旅へ出てしまい、アートもデビュー前に通っていた大学院へと戻ってしまったが、プロデューサーのトム・ウィルソンが、アルバム収録曲『サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)』にエレキギターやドラムなどを別テイクで加えてシングル発売したところ、これが大ヒット。サイモン&ガーファンクルは、一躍人気フォークロック・デュオとなる。


                   なお、『キャシーの歌(Kathy's Song)』は、ポールがイギリスに長期滞在していた際に交際していたガールフレンドに贈った曲である。キャシーは、ポールが歌っていたパブで券もぎ係りをしていた女性であった。また、『アメリカ (America)』の歌詞で触れているKathyと同一人物で、2人でアメリカ旅行に出掛けた際に書いたとされている。ポールのアルバム『ポールサイモン・ソングブック(Paul Simon Song Book)』に、若かりし頃のポールとキャシーが写っている。



                   その後も、ポールの作り出す哲学的・思索的な深い内容の詞・曲とアートの美しい歌声、そして2人の絶妙なハーモニーが受けて『スカボロー・フェア/詠唱(Scarborough Fair/Canticle)』『ミセス・ロビンソン(Mrs.Robinson)』などが大ヒット。1967年に映画『卒業』(日本公開は1968年)の音楽を担当したことで、日本をはじめ世界的にも大きな成功を収めた。


                   だが、1970年発表のアルバム『明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)』の制作中に、ポールとアートの音楽に対する意見の違いが表面化した。『明日に架ける橋』は、全世界で売上が1,000万枚を超える大ヒットとなり、グラミー賞の最優秀レコード賞・最優秀アルバム賞を受賞したものの、このアルバムを最後に2人はそれぞれのソロ活動に入った。


                   1972年6月14日、民主党大統領候補ジョ−ジ・マクガバン支援コンサ−トに揃って登場し「スカボロ・フェア」、「ザ・ボクサ−」、「明日に架ける橋」などを歌った。




                   1975年には『マイ・リトル・タウン(My Little Town)』をS&Gで録音し、それぞれのソロ・アルバム(ポール『時の流れに』、アート『愛への旅立ち』)に収録しているほか、1978年にアートが発表した『ウォーターマーク(Watermark)』に収録されている「(What A) Wonderful World(同:ワンダフル・ワールド)」では、ジェームス・テイラーと共にギターとボーカルでポールも参加しており、透明感あふれる3人のハーモニーを披露している。


                   1981年9月19日には、ニューヨークのセントラル・パークで再結成チャリティコンサートを開いて53万人もの観衆を動員し、世界ツアーを行った(1982年にはS&Gとして初来日し、後楽園球場大阪球場でコンサートを行っている)。この時、サイモンの作品にガーファンクルが参加する形でアルバム制作が行われたが、作品に対する意見の食い違いから、結局サイモンのソロ・アルバム(『ハーツ・アンド・ボーンズ』)としてリリースされた。このアルバムに収録された曲のいくつかは、ガーファンクルも録音に参加し、発売直前まで完成していた。その後、2人の間は疎遠になっていった(サイモンが、2003年にソロとしてロックの殿堂入りした際に、わざわざ「ガーファンクルとは仲直りしたい」とスピーチで述べているほど、2人の関係は冷え切っていた)。しかし、この疎遠な関係はあくまで音楽家としてであり、音楽を離れたプライベートでは、一緒にスイスへスキー旅行へ行くなど、旧友としての親交はその間も続いていたと言われている。



                   近年は1993年2003年と度々再結成を行い、全米ツアーなどを行っている。1993年12月1日には「Event of a lifetime Tour」の東京公演・福岡公演としてそれぞれ東京ドーム福岡ドームで再来日公演を行なった。この際、南こうせつが前座を務めた。2009年7月には16年ぶりの来日公演を行い、約15万人を動員する成功を収めた。2人の年齢からして最後の来日公演となるのではと言われている。ポール・サイモン本人も「2人とも年齢の事もあるし」と、今回の再結成が最後になることを示唆した発言をしている。


                   また、彼らの作品は多くのミュージシャンにカヴァーされ、歌い継がれている。例えばエルヴィス・プレスリーは、1970年以降のライヴで頻繁に「明日に架ける橋」を取り上げている。




                   忘れられない曲のひとつに「コンドルは飛んで行く  (1970年)」がある。ケーナ・チャランゴ・ギターで演奏されるこの曲は日本でも多く親しまれている。曲は3部構成となっており1部がヤラビと呼ばれるアンデスの寒く乾いた山を連想させるもの悲しい旋律、2部がフォックス・インカイコまたはパサカージェと呼ばれる行進曲調のリズム、3部がワイノと呼ばれる華やかな舞曲となっている。サイモン&ガーファンクルがカバーしたのは、このうちの第1部の部分だけである。悲しい音色の中にペルーの大空を舞うコンドルを思わせる雄大さがある。 


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                  人気アーティスト・ランキング 〜 Mr.Children 〜

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                     Mr.Children(ミスターチルドレン)は、日本ロック・バンド。略称は「ミスチル」。音楽プロデューサー小林武史。所属事務所烏龍舎。所属レコード会社トイズファクトリー。公式ファンクラブ名は「FATHER&MOTHER」。



                     デビュー以来20年以上の間、日本のポップミュージックの第一線を走り続ける大人気ロックバンドとして知られる。1990年代の
                    J-POPブームに乗って数々のヒット曲を生み出し、1994年から95年に発売したCDは全てミリオンセラーとなったことからメディアには大々的に「ミスチル現象」と称された。


                     2000年代に入っても依然として名実共に日本の音楽界を代表するロックバンドとしてアルバムセールスにおいて圧倒的な存在感を見せる。




                     プロデューサーはデビュー当時から小林武史が担っており、楽曲制作には欠かせない人物となっている。


                     1985年、同じ関東高等学校(現・
                    聖徳学園高等学校)に通う桜井和寿田原健一中川敬輔が中心となり5人組バンド「Beatnik」を結成し、1987年にバンド名を「THE WALLS」に改名。1988年、田原、中川の中学時代の同級生で他のバンドで活動していた鈴木英哉が加入して現在の4人体制となる。1989年1月1日に「Mr.Children」と改名した。その後ライブハウス「渋谷La.mama」を中心に約3年5か月間アマチュアとして活動し、1991年11月には後に20年以上にわたって全作品のプロデュースを勤めることとなる小林武史と初めて対面する。小林はMr.Childrenとの初対面を「(雰囲気が)暗いし、演奏も決して上手くは無かった」と回想している。1992年5月10日に小林プロデュースでミニアルバムEVERYTHING』を発売し、トイズファクトリーからメジャーデビュー。アマチュア時代からライブチケットを完売できるほど人気が高かったため、関係者からは期待されていたが数年の間は全く売れなかった(同期のバンドの中で最も売れなかったとメンバーは語っている)。



                     1993年発売の4thシングル「
                    CROSS ROAD」がオリコンチャートで最高順位が6位ながらも50週チャートインするロングヒットで初のミリオンセラーを達成すると、1994年発売の5thシングル「innocent world」で同チャート初登場1位を獲得。同年の年間シングルチャートでも1位を獲得し、同曲で第36回日本レコード大賞・大賞を受賞した。1995年には当時の史上最速記録でオリコン集計によるシングル総売上が1000万枚を突破、その後は11thシングル「花 -Mémento-Mori-」までの8作連続でミリオンセラーを記録するなど一気に邦楽界のトップシーンに登り詰めた。


                     1997年4月から活動休止期間に入り、1年半の休止期間を経て1998年10月に15thシングル「終わりなき旅」で本格的に活動を再開。2001年には区切りとなる2枚のベストアルバムMr.Children 1992-1995』『Mr.Children 1996-2000』を発売し、2002年にはデビュー10周年を迎えた。同年桜井が小脳梗塞を患ったため、一時はその後のアーティスト生命が危ぶまれたものの、半年の療養を経て24thシングル「HERO」で音楽活動を再開。2004年には「Sign」でバンドとしては史上初となる2度目の日本レコード大賞を受賞。2007年には13thアルバム『HOME』で初のオリコン年間アルバムチャート1位を獲得した。



                     現在もコンスタントに楽曲を発表し、ライブ活動も精力的に行なっており、デビュー20周年を迎える2012年5月10日には2度目のベストアルバム『Mr.Children 2001-2005 <micro>』『Mr.Children 2005-2010 <macro>』を発売した。



                     アルバムを発売した後はツアーの名前にアルバムの名前を含んだライブツアーを行っており、時にはドームやスタジアムなどの大規模な会場でアルバム名を含めたツアー名でライブを行うこともある。「
                    ap bank fes」を除いた野外ライブの参加がなくなった一方で、『HOME』から『SENSE』までは、例としてアルバム『HOME』発売後に『Mr.Children "HOME" TOUR 2007』『Mr.Children "HOME" TOUR 2007 -in the field-』といった1つのアルバムごとに、2度のライブツアーを行っている。アルバムの後に行うツアーではアルバムツアーをし、その次に行うライブツアーではドームやスタジアムなどでライブを行っている。



                     1度のライブにおける平均的なデータとしては曲数は23曲前後、公演時間は約2時間30分-3時間30分。MCは桜井が単独で話す場合が多いが、『MR.CHILDREN TOUR POPSAURUS 2012』では鈴木も話していた。MCの時間は1994年から徐々に減り始め、1996年からは1度のライブで数回行われるMC時間を合計しても15分程度になり、曲を聴いて欲しいという姿勢が顕著になっている。ライブ中は田原と中川と鈴木は例外を省き、定位置から動かず演奏しているが、ミニステージが会場中央に設置されているライブではそこにメンバー全員が移動して演奏することがある。積極的にステージ上を動いて観客を盛り上げるのは桜井の役目になっている。


                     日本のGS時代の変遷に、大きな意味を持つ彼らの登場である。20年間の彼らが積みあげた足跡は確実に前を向いて進んでいる。

                     


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                    人気アーティスト・ランキング 〜 ONE OK ROCK 〜

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                       ONE OK ROCK(ワンオクロック)は、日本ロックバンドロックメタルエモの要素を詰め込んだサウンドとアグレッシブなライブパフォーマンスが若い世代に支持されている。略称は「ワンオク」。



                       2005年、
                      堀越高等学校の同級生だったToru・Alex・Ryota・Tomoの4人がバンドを結成。その後、Toruの勧誘を受けたTakaがボーカルとしてバンドに加わる。7月、NEW POWER GENERATION Vol.3にて初ライブを行う。


                       2006年、ドラムのTomoが役者の道へ進むことを理由にバンドを脱退する。7月26日、1st mini album「ONE OK ROCK」でインディーズデビュー。8月にはTHE 夢人島 Fes.2006に出演する。




                       2007年4月、現ドラムのTomoyaがバンドに正式加入し、5人体制での活動を開始。同月25日には1st single「内秘心書」でメジャーデビューを果たす。


                       デビュー後は、様々なロックフェスやイベントに出演し、ワンマンツアーではZepp Tokyoをはじめ各地のライブハウスをソールドアウトにする等、精力的な活動を展開する。



                       2009年4月5日、ギターのAlexが不祥事を起こし、逮捕される。翌月にリリースされる予定だったシングル「Around ザ world 少年」の発売は見送られ、告知されていた全国ツアーも急遽中止となった。5月13日、Alexはバンドを脱退。残された4人のメンバーは、約半年間の活動休止を余儀なくされた。


                       2009年9月、活動再開。


                       2010年2月3日、復帰作としてリリースした「完全感覚Dreamer」がオリコンシングルチャートでキャリア初のTOP10入りを果たす。同年8月ROCK IN JAPAN FESTIVALSUMMER SONICMONSTER baSH等の大型夏フェスへ立て続けに出演。11月28日にはキャリア初となる日本武道館でのワンマンライブを行う。




                       2012年1月21日・22日、横浜アリーナにて二日間に渡るライブを開催し、のべ約24000人を動員した。


                       リハーサルの際、スタジオに入るのがいつも午前1時(one o'clock)だったことから、このバンド名がつけられた。
                      『ONE OK ROCK』以外にも『タクシーズ』という候補があった。


                       バンドブームも一時期を思うと、下火のように思えるが実はいつの時代にも新しい音楽が生み出されている。その感性が、若者たちとマッチしたとき、思いがけないアーティストが生まれる。


                       

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                      徹人28人 ◆ 繊.襦璽肇凜ヒ・ヴァン・ベートーヴェン

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                         ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(: Ludwig van Beethoven、ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い 発音例1770年12月16日ごろ - 1827年3月26日)は、ドイツ作曲家音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされ、「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。



                         
                        1770年12月16日神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手テノール)であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言える苛烈を極める音楽スパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。


                         1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルト弟子入りを申し入れ、モーツァルトにその才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し(肺結核)、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。


                         1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。




                         20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。


                         1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(による表現)と呼ばれる時期となる。


                         40代に入ると、
                        難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどしたカールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で作られた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。


                         1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日肝硬変により56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。



                         ベートーヴェンの先生としては、どの伝記作家も取り上げるネーフェ。先に上述の候付き老オルガン奏者ヴァン・エーデンの後任として1781年に就任。ベートーヴェンに何を教授したか、その期間も定かではないが、ネーフェ自身、一貫して系統立てて作曲の理論を学んでいたわけではないから、断片的にネーフェが知りうる程度の教授であったろうことは想像に難しくはない。しかし、このクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェは、最初にベートーヴェンの才能を認めたヴァルトシュタイン伯爵とともに、ベートーヴェンの音楽的才能を最初に評価した人である光栄に浴する権利は十分にある。ベートーヴェンの「ウィーン行き」(ハイドンの元へベートーヴェンを弟子入りさせる計画)は、ネーフェとヴァルトシュタイン伯爵が実現させた立役者である。ベートーヴェンもネーフェの好意に感謝をして「私の天与の芸術が向上するにつき、先生が再三ならず与えられた助言に感謝をしております」というベートーヴェンらしい強気な自信と感謝の念を残している。


                         現代において、多くの身体的障害を乗り越えて活躍する音楽家の方たちがみえるが、彼らには先駆者としてのベートーヴェンの『運命』の響きが、その耳朶から離れないであろう。



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