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    • 2016.04.04 Monday
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    愛する詩人 〜 茨木のり子 4 〜

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        さくら

       


      ことしも生きて


      さくらを見ています


      ひとは生涯に


      何回ぐらいさくらをみるのかしら


      ものごころつくのが十歳ぐらいなら


      どんなに多くても七十回ぐらい


      三十回 四十回のひともざら


      なんという少なさだろう


      もっともっと多く見るような気がするのは


      祖先の視覚も


      まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう


      あでやかとも妖しとも不気味とも


      捉えかねる花のいろ


      さくらふぶきの下を ふららと歩けば


      一瞬


      名僧のごとくにわかるのです


      死こそ常態


      生はいとしき蜃気楼と



          

        今年も桜の時期は終わりました。一回分見終わって

      しまいました。あと何回見れるのでしょうか?


      それよりも今年、一回桜を見れたことに感謝したい


      です。茨木さんのいう「死こそ常態」という目から


      見れば、あと何回見れるかよりもこれまでたくさん


      見せていただいたことに感謝し、もう一回見せてい


      ただけたと喜びたいです。




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      愛する詩人 〜 石垣りん 3 〜

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        童   謡

         

         

        お父さんが死んだら


        顔に白い布をかけた


         

        出来上がった食事の支度に


        白いふきんがかけられるように


        みんなが泣くから


        はあん お父さんの味はまずいんだな


        涙がこぼれるほどたまらないのだな


        と わかつた


         

        いまにお母さんも死んだら


        白い布をかけてやろう


        それは僕たちが食べなければならない


        三度のごはんみたいなものだ


         

        そこで僕が死ぬ日には


        僕はもつと上手に死ぬんだ


        白い布の下の


        上等な料理のように さ


         

        魚や 鶏や 獣は


        あんなにおいしいおいしい死に方をする

         

         

          人の死に対する考え方を、見事に考え直させてくれる。


        魚や鶏や獣に比べたら、人間はずいぶん醜い死に方をしているに

        違いない。

         


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        愛する詩人 〜 金子みすゞ 4 〜

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           みんなをすきに

           

           

          私は好きになりたいな


          何でもかんでもみいんな


           

          ねぎもトマトもお魚も


          のこらず好きになりたいな


           

          うちのおかずはみいんな


          かあさまがお作りになったもの


           

          私は好きになりたいな


          だれでもかれでもみいんな


           

          お医者さんでもカラスでも


          残らず好きになりたいな


           

          世界のものはみいんな


          神様がお作りになったもの

           

           

            ここで言う「神」を「大自然」と訳したい。

           


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          愛する詩人 〜 黒田三郎 3 〜

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            夕暮れ 

             

             

            夕暮れの街で


            僕は見る


            自分の場所からはみ出てしまった


            多くのひとびとを


             

            夕暮れのビヤホールで


            彼はひとり


            一杯のジョッキをまえに


            斜めに座る


             

            彼の目が


            この世の誰とも交わらない


            彼は自分の場所をえらぶ


            そうやってたかだか三十分か一時間


             

            夕暮れのパチンコ屋で


            彼はひとり


            流行歌と騒音の中で


            半身になって立つ


             

            彼の目が


            鉄のタマだけ見ておればよい


            ひとつの場所を彼はえらぶ


            そうやてったかだか三十分か一時間


             

            人生の夕暮れが


            その日の夕暮れと


            かさなる


            ほんのひととき

             

            自分の場所からはみ出てしまった


            ひとびとが


            そこでようやく


            彼の場所を見つけ出す



               ※ 
            自分自身の居場所を見つけたとき人は安心する。しか

               し、その場所が自分にとって無意味なとき、新たな居場所

               を求める。そうそれは作られたものではなく、元々あった

               のだ。いつも見る夕暮れのように。。。

             


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            愛する詩人 〜 吉岡 実 〜

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                    僧侶 

               

              四人の僧侶

               庭園をそぞろ歩き

               ときに黒い布を巻きあげる

               棒の形

               憎しみもなしに

               若い女を叩く

               こうもりが叫ぶまで

               一人は食事をつくる

               一人は罪人を探しにゆく

               一人は自潰

               一人は女に殺される

               

               

              四人の僧侶

               めいめいの務めにはげむ

               聖人形をおろし

               磔に牝牛を掲げ

               一人が一人の頭髪を剃り

               死んだ一人が祈祷し

               他の一人が棺をつくるとき

               深夜の人里から押しよせる分娩の洪水

               四人がいっせいに立ちあがる

               不具の四つのアンブレラ

               美しい壁と天井張り

               そこに穴があらわれ

               雨がふりだす

               

               

              四人の僧侶

               夕べの食卓につく

               手のながい一人がフォークを配る

               いぼのある一人の手が酒を注ぐ

               他の二人は手を見せず

               今日の猫と

               未来の女にさわりながら

               同時に両方のボデーを具えた

               毛深い像を二人の手が造り上げる

               肉は骨を緊めるもの

               肉は血に晒されるもの

               二人は飽食のため肥り

               二人は創造のためやせほそり

               

               

              四人の僧侶

               朝の苦行に出かける

               一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく

               一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく

               一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる

               一人は死んでいるので鐘をうつ

               四人一緒にかつて哄笑しない

               

               

              四人の僧侶

               畑で種子を撒く

               中の一人が誤って

               子供の臍に蕪を供える

               驚愕した陶器の顔の母親の口が

               赭い泥の太陽を沈めた

               非常に高いブランコに乗り

               三人が合唱している

               死んだ一人は

               巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

               

               

              四人の僧侶

               井戸のまわりにかがむ

               洗濯物は山羊の陰嚢

               洗いきれぬ月経帯

               三人がかりでしぼりだす

               気球の大きさのシーツ

               死んだ一人がかついで干しにゆく

               雨のなかの塔の上に

               

               

              四人の僧侶

               一人は寺院の由来と四人の来歴を書く

               一人は世界の花の女王達の生活を書く

               一人は猿と斧と戦車の歴史を書く

               一人は死んでいるので

               他の者にかくれて

               三人の記録をつぎつぎに焚く

               

               

              四人の僧侶

               一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ

               一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた

               一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で

               死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く

               一人は死んでいてなお病気

               石塀の向うで咳をする

               

               

              四人の僧侶

               固い胸当のとりでを出る

               生涯収穫がないので

               世界より一段高い所で

               首をつり共に嗤う

               されば

               四人の骨は冬の木の太さのまま

               縄のきれる時代まで死んでいる

               

               

                 人々の「生と死、生と性」の寓意となっている。「聖の中に俗

              があり、俗の中に聖がある」という宗教の本質をついている。


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              徹人28人 Α 繊.泪魯肇沺Εンディー 〜

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                 モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(グジャラート語 グラジャラーティ文字表記:મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી、デーヴァナーガリー文字表記: मोहनदास करमचन्द गांधी、ラテン文字表記:Mohandas Karamchand Gandhi1869年10月2日 - 1948年1月30日)は、インドグジャラート出身の弁護士宗教家、政治指導者
                 


                 マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー)として知られるインド独立の父。「マハートマー(महात्मा)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、アニー・ベザントが最初に言い出したとの説もある)。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(बापू:「父親」の意味)とも呼ばれている。日本語では「ガンジー」とも表記される。


                 1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、受賞には至っていない。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」(गांधी जयंती、ガーンディー・ジャヤンティー)という国民の休日となっており、2007年6月の国連総会では、この日を国際非暴力デー英語版という国際デーとすることが決議された。


                 
                イギリス領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国宰相カラムチャンド・ガンディーと、その夫人プタリーバーイーの子として生まれた。ポールバンダルの小学校に入学後、ラージーコートの小学校に入りなおす。成績が悪く融通もきかない面があった。


                 小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。


                 その後、12歳でアルフレッドハイスクールに入学。13歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となるカストゥルバと結婚。18歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士となるために勉強する。




                 卒業後、
                1893年にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業した。しかし、白人優位の人種差別政策下で、鉄道の一等車への乗車を拒否され荷物もろとも放り出されるなどの強烈な人種差別を体験したことで、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。


                 1880年代以降、ガンディーはインドの宗教的叙事詩バガヴァッド・ギーターロシア小説家レフ・トルストイの影響を受けていたが、『新約聖書』の「山上の垂訓」など基督の十字架の道を深く理解し、「非所有」の生涯を決意する。後の非暴力運動思想を形成していく。


                 20世紀初頭には、南アフリカ連邦となり、1913年に原住民土地法が制定されるなど人種差別政策の体制化が進んだ南アフリカにおいて、インド系移民の差別に対する権利回復運動を行った。1908年初めて逮捕される。その後1913年にトランスバールの行進を企画し初めて投獄された。しかし、不正を追及し撤廃させ初めて勝利を手にした。


                 ダーバン近郊でアーシュラマ共同農園を創設。そこで、禁欲、断食、清貧、純潔を実践し、精神面を強化し、イギリスからの独立を展望している。。 この時の経験は1915年にインドに帰国してからの民族運動にも生かされている。
                 


                 第一次世界大戦後は、独立運動をする
                インド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。「インドの糸車を廻すガンディー」の写真はこの歴史的背景による。


                 こうした一連の運動のために、ガンディーはたびたび投獄された。例えば1922年3月18日には、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役の判決を受けている。第一次の不服従運動は、1922年にインド民衆が警察署を襲撃して20人ほどの警官を焼死させる事件が発生し中止されたが、1930年より不服従運動は再開された。とりわけ、「塩の行進」と称されるイギリスのに抗議した運動は有名である。 ガンディーが不服従運動のための協力者の要員を募集する際のその条件は、やはり多くの人と信頼を構築でき、その協力を得られるような人格者であったが、この「非暴力運動」に参加すること自体でも、暴力で運動を止めさせようとする兵士に対して反撃を行わず、逃げもしないという非常な勇気が必要とされ真の強さと忍耐が必要とされる。 非暴力の思想はインドと距離的に近い西アジアなどでも見られ、アジアで生まれたヒンドゥー教イスラム教仏教キリスト教でそれはあてはまり、アジアの思想に共通するという思想からガンディーは自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同するとして宗教グループ間や世界の人々に対話を呼びかけた。



                 
                1939年9月に勃発した第二次世界大戦において、インド国民会議のスバス・チャンドラ・ボースラース・ビハーリー・ボースA.M.ナイルは、アジアにおいて、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げイギリスと対立した日本と緊密な関係を築くことで、イギリスに揺さぶりをかけようとした。しかしガンディーは、この様な動きに連携することはなく大きな動きを見せなかった。


                 ただし、日本軍が英米をはじめとする連合国軍を撃破し続け、インド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫った1942年初頭から1943年中盤の時期には、日本との連携を模索する姿勢を見せていたことが指摘されている。実際に1942年には、日本軍のインドへの接近にあわてたイギリスが、インドをイギリス連邦内自治領として認めるとしたことでインド人の懐柔を狙おうとしたが、カンジーはこれを拒否し、民衆は「クイット・インディア」(インドから出ていけ)を掲げ、その結果2年間投獄されることとなった。しかし同時にガンディーは「すべての日本人に」を発表し、強権的かつ人種差別を明確に掲げるドイツやイタリアと組み覇権主義的な行動を見せつつある日本の姿勢に対する疑問を明らかにした。


                 1945年8月に第二次世界大戦が終結しイギリスは戦勝国となったが、国力は衰退し、もはや、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを、植民地として支配していくことは困難であった。さらにはチャンドラ・ボースの設立したインド国民軍として日本軍とともに戦ったインド人将官が反逆罪として裁判にかけられることとなりガンジーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」とインドの国民へ独立運動の号令を発した。




                 インド全体へ独立運動は広がり、これに耐えることができなくなったイギリスはインドの独立を受け入れ、1947年8月15日にデリー赤い城にてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した(その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった)。


                 なお、ガンディーの「ヒンズーとイスラムが融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的にイスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。


                 ガンディーはヒンドゥー教徒だけでなく
                イスラム教徒にも影響を与えている。1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセー英語版नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。


                 3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム हे राम」)とつぶやいてこの世を去った。78歳であった。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川ガンジス川南アフリカの海に撒かれた。


                 ガンディーは自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げた。彼は、自分の失敗や自分自身を使った実験などから学ぶことを通して、この目的の達成を試みた。実際、彼は自叙伝に『真理を対象とした私の実験について(
                英語: The Story of My Experiments with Truth)』という題をつけている。


                 ガンディーは、非暴力運動において一番重要なことは自己の内の臆病や不安を乗り越えることであると主張する。ガンディーは、自分の理念を纏め、初めは「神は真理である」と述べていたが、後になると「真理は神である」という言葉に変えている。よって、ガンディー哲学における真理(Satya)とは「神」を意味する。



                 
                非暴力アヒンサーअहिंसा)の概念はインド宗教史上長い歴史を持ち、ヒンドゥー教、仏教(仏陀に代表される)、ジャイナ教の伝統において何度もよみがえった。また、彼の非暴力抵抗の思想は、新約聖書や『バガヴァッド・ギーター』の教えに特に影響されている。自らの思想と生き方を、ガンディーは自叙伝の中で書いている。以下にガンディーが語った言葉からの引用を列記する。


                 「私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ」。


                 「狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか」。


                 「"目には目を"は全世界を盲目にしているのだ」。


                 「私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」。



                 また、ガンディーは自分の非暴力の信条を実行に移すとき、彼は極限まで論理的につきつめることを辞さなかった。1940年にドイツ軍がいよいよイギリス本土に侵入しようとしたとき、ガンディーはイギリス国民に次のように助言した。



                 「持っている武器を下に置いてほしい。武器はあなた方を、ないしは人類を、救う役には立たないのだから。あなた方はヘル・
                ヒトラーシニョール・ムッソリーニを招きいれることになるだろう。あなた方の国、あなた方が自分たちのものと称している国から、かれらは欲しいものを持っていってしまうだろう。もしこの紳士たちがあなた方の故郷を占領したなら、あなた方は立ち退くことになる。もし、かれらが脱出を許さなかったなら、あなた方は男も女も子どもも、虐殺されることになる。しかしあなた方は、かれらに忠誠を尽くすことは拒むだろう


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                愛する詩人 〜 栃木のり子 4 〜

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                       娘たち

                   


                  イヤリングを見るたびに おもいます


                  縄文時代の女たちとおんなじね


                   

                  ネックレスをつらねるたびに おもいます


                  卑弥呼のころと変わりはしない


                   

                  指輪はおろか腕輪も足輪もありました


                  今はブレスレット アンクレットなんて気取ってはいるけれど


                   

                  頬紅を刷(は)くたびに おもいます


                  埴輪の女も丹(に)を塗りたくったわ


                   

                  ミニを見るたびに 思います


                  早乙女のすこやかな野良着スタイル


                   

                  ロングひるがえるたびに おもいます


                  青丹(あおに)よし奈良のみやこのファッションを


                   

                  くりかえしくりかえす よそおい


                  波のように行ったり 来たりして


                   

                  波が貝殻を残してゆくように


                  女たちはかたみを残し 生きたしるしを置いてゆく


                   

                  勾玉(まがたま)や真珠 櫛やかんざし 半襟や刺子(さしこ)


                  家々のたんすの奥に 博物館の片隅にひっそりと息づいて


                   

                  そしてまた あらたな旅立ち


                  遠いいのちをひきついで さらに華やぐ娘たち


                   

                  母や祖母の名残の品を


                  身のどこかに ひとつだけ飾ったりして

                   

                   

                  ※  壮大な時の流れを、当たり前のように現代と結びつけ

                  てしまう。


                   そう、時代は繰り返されている。巡り巡っている。

                  そんな中でもひとつぐらいは、自分だけのものを身に

                  つけていたいですね。(モノだけでなく。。。)




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                  徹人28人 А 繊.悒譽鵝Ε吋蕁次 

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                     ヘレン・アダムス・ケラー(: Helen Adams Keller1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国教育家社会福祉活動家著作家である。自ら重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした。



                     
                    1880年6月27日、アメリカ合衆国アラバマ州タスカンビアで誕生。父のアーサー・ケラ
                    ーは
                    スイスから移住したドイツ系の地主の息子で、アーサーの母は南軍の総司令官、ロバート・E・リーとはまたいとこの関係にあり、アーサーもまた南北戦争時は南軍大尉だったドイツ系アメリカ人であった。母のケイト・アダムス・ケラーも父のチャールズ・アダムスが南軍の准将であり、両親ともに南部の名家の出身である。兄弟は異母兄が2人、のちに同母妹を持つ。


                     1882年2歳(生後19か月)の時に高熱にかかる。医師と家族の懸命な治療により、かろうじて一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえ出来なくなった。このことから、両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。




                     1887年、ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは、諦めかけられていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年にも渡って、よき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。


                     1897年、サリヴァンが校長のアーサー・ギルマンと衝突したため、ヘレンはケンブリッジ女学院を退学し、2人はレンサムに落ち着く。ヘレンは、もう一人の家庭教師の手を借りて勉強を続ける。



                     1900年、ラドクリフ女子大学(現:ハーバード大学)に入学。


                     1902年、『わたしの生涯』を出版する。


                     1904年、ラドクリフ女子大学を卒業、文学士の称号を得る。


                     1906年、マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。


                     1909年アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても活動を続ける。


                     1916年世界産業労働組合 (IWW) に共感を覚え、活動に参加。1917年ロシア革命を擁護した。


                     疲れのせいかサリヴァンの目の病気が再発したため、ポリー・トンプソンが手伝い(のちに秘書)として、ヘレンとサリヴァンのもとで働くようになる。


                     1936年10月20日、サリヴァン死去。亡くなる直前、サリヴァンは、サリヴァンが病床にあるという理由で岩橋武夫からの来日要請を躊躇していたヘレンに「日本に行っておあげなさい」と遺言したという。


                     1937年昭和12年)4月15日、トンプソンとともに横浜港に到着し日本各地を訪問した。




                     横浜港に到着したあとすぐに新宿御苑へ行き、そこで開催されていた観桜会で昭和天皇に拝謁した。


                     この訪日でヘレンは「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。


                     この訪日でヘレンは秋田犬を所望し、後に2頭を贈られた。


                     東京盲学校(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)、同志社女子大学を訪問。


                     この訪日の時に、ヘレンは横浜港の客船待合室で財布を盗まれてしまう。そのことが新聞で報道されると、日本全国の多くの人々からヘレン宛てに現金が寄せられた。その額はヘレンが日本を離れる時までに盗まれた額の10倍以上に達していた。



                     4月19日には大阪、4月30日には埼玉、そして5月に入ると日本各地を次々と旅して回った。


                     8月10日に横浜港より秩父丸に乗りアメリカへ帰国した。


                     1946年、海外盲人アメリカ協会の代表として、トンプソンとともにヨーロッパを訪問。


                     1948年(昭和23年)、2度目の日本訪問。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。




                     1951年南部アフリカを訪問。


                     1952年フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられる。


                     同年から1957年にかけて、中東中部アフリカ北欧日本を訪れる。


                     1955年(昭和30年)、サリヴァンの伝記『先生』を出版。3度目の訪日も実施し、熱烈な歓迎を受けた。訪日の理由の一つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。



                     1960年、トンプソン死去。

                     
                     
                    1961年、病気になり、徐々に外界との接触を失う。


                     1964年9月、アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。


                     1968年6月1日、コネチカット州イーストンの自宅で死去。87歳没。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。


                     ヘレンは福祉活動のみならず、広範囲な政治的関心を持って活動した女性であった。当時としては先進的な思想を持ち、男女同権論者として
                    婦人参政権避妊具の使用を主張した。また、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮にも反対した。


                     これらの活動のため、ヘレンは FBI の要調査人物に挙げられている。最初の訪日の際には特別高等警察の監視対象になっていた。



                     ヘレンは、自身の考える20世紀の三大重要人物を問われて、
                    エジソンチャップリンレーニンを挙げている。


                     ヘレンとサリヴァンの半生は『The Miracle Worker』として舞台化および映画化されており、日本では奇跡の人という日本語題で何度も上演されている。英語の「The Miracle Worker」には「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味があり、サリヴァンのことを指すが、日本ではヘレンのことと誤解され、「奇跡の人」がヘレンの代名詞として用いられることも多い。サリヴァンはヘレンの初訪日直前に病没しているため、日本ではサリヴァンを知る人がごく一部しかいなかったのが誤解の原因と言われている。


                     ヘレンを快く思わない者も少なくなく、日本の重光葵の手記『巣鴨日記』によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、ヘレンのニュースが耳に入ってきた際、ヘレンのことを「あれは盲目を売り物にして居るんだよ!」とこき下ろしている者もいたという。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と元将官たちを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。

                     
                     幼少時、ヘレンは同じく盲目の
                    塙保己一を手本に勉強したという。塙のことは母親から言い聞かされていたとされる。



                     秘書で元新聞記者のピーター・フェイガンと相思相愛になり婚約までしたが、独断だったこともあってヘレンの家族の反対に遭い、破談にさせられた。特に、保守的な思想を持つ母親は、労働者運動をしていたピーターを嫌っており、その反対ぶりはライフルをピーターに向けて「今後一生近付くな。さもなければ射殺する」と脅迫したほどだったという。結局、ピーターは秘書を辞めさせられたばかりか、これがヘレンとの今生の別れとなり、別の女性と結婚。一女をもうけたのちに没した。ヘレンもこれが最初で最後の恋愛となり、生涯独身を通した。  


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                    徹人28人 Α 繊‘鸞緻 市川 猿翁 〜

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                       二代目 市川 猿翁(にだいめ いちかわ えんおう、1939年昭和14年)12月9日 - )は、日本俳優演出家歌舞伎役者。屋号は澤瀉屋定紋澤瀉、替紋は三ツ猿俳名に華果(かか)がある。また、紫派藤間流二代目家元として二代目藤間紫を名乗る。「猿翁」は隠居名で、49年間にわたって使い続けた三代目 市川 猿之助(さんだいめ いちかわ えんのすけ)としても広く知られる。本名は喜熨斗 政彦(きのし まさひこ)。



                       慶應義塾大学文学部国文学科卒業京都造形芸術大学教授を務めていたこともある。


                       三代目猿之助を襲名後ほどなくして祖父・
                      初代市川猿翁(二代目市川猿之助)と父・三代目市川段四郎を相次いで亡くすという悲運に見舞われる。後ろ盾を失い「梨園の孤児」となりながらも他門の庇護を受けることを潔しとせず、祖父譲りの革新的な芸術志向と上方歌舞伎伝統のケレンとを結びつけることによって歌舞伎界に新風を吹き込んだ。




                       1968年(昭和43年)『義経千本桜』「四ノ切」で披露した「宙乗り」を皮切りに、明治の演劇改良運動以後は邪道として扱われ顧みられなかったケレンの演出を次々に復活させた「猿之助歌舞伎」で一世を風靡した。猿之助歌舞伎のエンターテインメント性に富む、見応えのある舞台は観客からは高い支持を集めたものの、当初はまだ一般に保守的だった他の歌舞伎役者や劇評家たちからは相手にされないほどの酷評を受けた。十一代目市川團十郎の実弟で、市川宗家の御意見番的存在だった二代目尾上松緑に至っては、この猿之助歌舞伎のことを「喜熨斗サーカス」とまで言い、揶揄している。木下大サーカスを猿之助の本名の「喜熨斗」(きのし)にひっかけたものだが、宗家の連枝とはいえ、別家の役者にそこまで言われるのも、歌舞伎界で孤立無援となった猿之助の悲しさだった。


                       しかし猿之助はそうした逆境を見事に克服する。やがて宙乗りがない従前の演出で上演した「四ノ切」が「つまらない」と不入りになると、七代目尾上菊五郎のような権門家の宗家までもが猿之助版の「四ノ切」を上演しはじめるようになったのである。この宙乗りの演出は元々、猿之助が三代目實川延若から教わったのが最初で、その後「四ノ切」に限らず、近年では後進の歌舞伎役者も多く取り入れており、前述の七代目尾上菊五郎をはじめ、十二代目市川團十郎九代目松本幸四郎十八代目中村勘三郎らも宙乗りの演出を使った公演を行うようになった。



                       古劇の復活から古典の再創造、スーパー歌舞伎の創造に至るまでの精力的な活動が舞台芸術にひとつの領域を切り開いた。


                       2003年11月17日、博多座で自身の演出・出演による『西太后』の公演中に体調不良を訴え、降板。この時は「初期の脳梗塞」との診断を受けた、と公表されたが、実際にはパーキンソン症候群を発症していた。これ以降、俳優として舞台に立つ機会は減り、スーパー歌舞伎や自身の手がけた復活演目の演出面で活動を続けている。2011年9月、二代目市川亀治郎猿之助襲名会見時に、実子・香川照之と共に8年ぶりに公の場に姿を現した。




                       2012年6月5日開幕の新橋演舞場での六月大歌舞伎で、二代目 市川猿翁の隠居名を襲名した。


                       母は映画女優の
                      高杉早苗。妹に女優の市川靖子、弟に四代目市川段四郎がいる。この四代目段四郎の一人息子(二代目 市川亀治郎)が2012年6月、四代目市川猿之助を襲名した。



                       2度の結婚歴がある。1965年(昭和40年)に結婚した最初の妻は、元宝塚歌劇団雪組のトップ娘役で女優の浜木綿子。浜との間には一人息子である香川照之(のちの九代目 市川中車)を儲けたが、実質的な夫婦としての生活は1年と数カ月で別居、1968年に正式離婚。息子は浜に引き取られた。


                       破局の原因は不倫だったが、その相手が日本舞踊藤間流紫派家元で女優の藤間紫である。藤間は猿之助が12歳の時の初恋相手だったが、16歳年上で既婚者、子持ち。しかも夫は自身の踊りの師匠、六世 藤間勘十郎ということもあり、なんとか諦めをつけ結婚したのが浜だった。だが結局、双方とも思いを絶つ事が出来ず、一人息子が1歳を迎えた頃には家庭を捨て、駆け落ち同然の暮らしを始める。この二人の同棲生活は35年にも及び、1985年に藤間の離婚が成立。2000年、正式に結婚した。しかしその後は不遇が続き、2003年には猿之助が脳梗塞を発症、2009年には藤間が肝不全のため死去している。


                       息子・照之は大学卒業後、1989年俳優デビュー。それを機に25歳の冬、思い立って猿之助の公演先へ会いに行っている。その際、猿之助は「大事な公演の前にいきなり訪ねてくるとは、役者としての配慮が足りません」と照之を叱責、「即ち、私は家庭と訣別した瞬間から蘇生したのです。だから今の僕とあなたとは何の関わりもない。あなたは息子ではありません。したがって僕はあなたの父でもない。」「あなたとは今後、二度と会う事はありません。」と完全に拒絶し、突き放した。その後、藤間紫の尽力で和解が進み、2009年の藤間の葬儀には親族として参列している。さらに、2011年9月27日、亀治郎の四代目猿之助襲名と自身の二代目猿翁襲名、照之と照之の息子・政明の歌舞伎界進出発表の際には涙ながらに「浜さん、ありがとう。恩讐の彼方に、ありがとう」と、前妻・浜に対して感謝の言葉を述べている。


                       藤間紫の死後、猿之助と親密になり、藤間の一周忌が明けた後に同棲をはじめたのが、30歳以上年下の元・博多座のスタッフの女性で、現在はこの女性が猿之助の介護から一門の人事まで諸事万端をサポートしているとされる。一時、息子一家との同居が報じられたが、その後は香川宅近くのマンションに居を移しており、稽古は香川が猿翁宅へ通い、行なわれている。


                       香川 照之(かがわ てるゆき、
                      1965年12月7日 - )は、日本俳優


                       歌舞伎役者でもあり、名跡市川中車」の当代、九代目 市川 中車(くだいめ いちかわ ちゅうしゃ)を名乗る。屋号は澤瀉屋。定紋は大割牡丹、替紋は片羽車。


                       コムスシフトを経て、ロータス・ルーツ所属。東京大学文学部卒業。


                       
                      東京都出身。父は歌舞伎役者二代目市川猿翁、母は元宝塚歌劇団雪組主演娘役で現在は女優浜木綿子。父方の祖父は三代目市川段四郎、祖母は女優の高杉早苗、叔父は四代目市川段四郎、叔母は市川靖子。母方の叔母は元タカラジェンヌ宝塚歌劇団47期生の浜由理子。





                       1965年、NHK大河ドラマ太閤記』に念仏踊りの姉妹の姉役で出演していた浜は妊娠のため、番組を途中で降板したが、その年の12月に生まれたのが照之である。


                       両親は1968年に離婚し、母親の浜が照之を引き取り、女優活動を続けながら女手一つで香川を育てた。小学校から高等学校まで一貫して暁星学園に在籍した後、1988年東京大学文学部社会心理学科を卒業した。


                       
                      1989年、NHK大河ドラマ『春日局』で俳優デビューし、小早川秀秋を演じた。初期の代表作はオリジナルビデオ作品『静かなるドン』シリーズ。その後は橋田壽賀子脚本作品などのテレビドラマが活動の中心であったが、『犬、走る DOG RACE』、『独立少年合唱団』、2002年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『鬼が来た!』などで、徐々に知名度が高まった。さらに、NHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語』で豊臣秀吉を演じたことで一般的にもその存在が広く知られるようになった。


                       2004年、再び中国映画『暖〜ヌアン〜』(日本公開名『故郷(ふるさと)の香り』)に準主演。同作で香川は東京国際映画祭の男優賞を受賞。主演女優賞の寺島しのぶとともに映画界の話題をさらう。私生活では同年1月16日に長男・政明が誕生する。この年の上半期の連続テレビ小説天花』に出演した。


                       2006年スタジオジブリアニメーション映画ゲド戦記』で声優に初挑戦した。


                       2010年3月、『劒岳 点の記』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した。




                       
                      2011年9月27日、香川が九代目市川中車を襲名して歌舞伎俳優に進出し、2012年6月に催される「六月大歌舞伎」に出演することが発表された。八代目まで屋号は立花屋だったが、香川が襲名する九代目からは特別に猿之助の屋号と同じ澤瀉屋を名乗る。また、同時に、実父の三代目市川猿之助が二代目市川猿翁、従弟の二代目市川亀治郎が四代目市川猿之助をそれぞれ襲名し、長男・政明が五代目市川團子(だんこ)として歌舞伎界にデビューすることも発表された。なお、特例により「香川照之」の名で引き続き芸能活動することを許され、俳優業では「香川照之」、歌舞伎では「市川中車」の2つの名前を使い分けることとされた。
                      きっかけとなったのは、父・三代目猿之助との和解と、何よりも政明の誕生だった。歌舞伎の家に生まれた事で「猿之助の名前は140年続く。政明という長男がいて、この船に乗らない訳には行かない」との思いを強くした、と語っている。


                       2012年3月、襲名公演の演目と配役を発表された。新橋演舞場六月大歌舞伎では、『小栗栖の長兵衛』の長兵衛、『スーパー歌舞三代猿之助 四十八撰の内 ヤマトタケル』の帝。新橋演舞場七月大歌舞伎では、『スーパー歌舞伎三代猿之助 四十八撰の内 ヤマトタケル』の帝、『将軍江戸を去る』の山岡鉄太郎である。



                       歌舞伎界で孤立無援となった猿之助の悲しさを、救ったのが「スーパー歌舞伎」であり、一度は「父子の誓い」を断絶した、息子・ 照之である。歌舞伎という日本独自の伝統の世界で新たな試みは、御法度だったかも知れない。しかし、時代とともに移り行く世界にあって、日本の伝統芸能「歌舞伎」を世界に知らしめたのは、間違いなく三代目 市川 猿之助という、歌舞伎に徹した人間の功績である。


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                          一年生になったら

                         


                        一年生になったら


                        一年生になったら


                        ともだち100人 できるかな


                        100人で 食べたいな


                        富士山の上で おにぎりを


                        パックン パックン パックンと


                         

                        一年生になったら


                        一年生になったら


                        ともだち100人 できるかな


                        100人で かけたいな


                        日本中を ひとまわり


                        ドッシン ドッシン ドッシンと


                         

                        一年生になったら


                        一年生になったら


                        ともだち100人 できるかな


                        100人で 笑いたい


                        世界中を ふるわせて


                        ワッハハ ワッハハ ワッハッハ

                         

                         

                          「一年生になったら」の歌について あの歌の歌詞に「友達1

                        00人出来るかな?100人で食べたいな♪」というところ

                        がありますよね?


                         
                        でも、友達100人に自分を加えたら、101人ですよね?

                        あと一人はいったいどこに行ったんでしょうか?


                         

                         この問いに対して、様々な意見、あるいは都市伝説なるも

                        のを書いてる方がありますが、全くのナンセンスですね。
                        100

                        人というのは、多くの友達の代名詞であり、
                        99人でも101

                        でも問題はないはずです。

                         


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