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    • 2016.04.04 Monday
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    メグ・ライアン

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       メグ・ライアン(Meg Ryan、本名:マーガレット・メアリー・エミリー・アン・ハイラ、Margaret Mary Emily Anne Hyra1961年11月19日 - )は、アメリカ合衆国女優



       
      ニューヨーク北東郊のコネチカット州フェアフィールド出身。父親のハリー・ハイラは数学教師、母親のスーザン・ハイラ・ジョーダンは元女優及びキャスティング・ディレクター、現英語教師。ジャーナリスト志望でコネチカット大学に入学した後、ニューヨーク大学に編入しジャーナリズムを専攻。


       大学在学中にエージェントに見いだされ、映画『ベストフレンズ』(1981年公開)でデビュー。1982年から1984年まで連続ドラマ『As the World Turns』に出演。

       

       1986年公開のトップガン』に出演して注目を浴びる。翌年公開の『インナースペース』で人気を獲得して、同年公開の『プロミストランド/青春の絆』でインディペンデント・スピリット賞主演女優賞にノミネートされた。


       1989年公開のビリー・クリスタルと共演した『恋人たちの予感』の大ヒットによって人気を決定付ける。それ以降も、トム・ハンクスとの共演で『めぐり逢えたら』(1993)や『ユー・ガット・メール』(1998)などのロマンティック・コメディに主演しヒットを飛ばし、「ロマンティック・コメディの女王」と呼ばれ人気を博す。また、この三作品ではゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。 一方、作品選びの悪さで有名で、これまで『ゴースト/ニューヨークの幻』、『プリティ・ウーマン』、『羊たちの沈黙』などのオファーを断っている。




       しかし、後述する不倫騒動や演技派への転向を図って出演した『イン・ザ・カット』の失敗もあってか、近年は出演作にも恵まれず低迷している。


       1991年2月14日に俳優の
      デニス・クエイドと結婚、1992年4月24日に長男(ジャック・ヘンリー)を出産。2000年に『プルーフ・オブ・ライフ』で共演したラッセル・クロウとの不倫騒動で別居し、2001年7月16日に離婚。その後、2008年に離婚の真相を告白している。2010年頃から、シンガーソングライターのジョン・メレンキャンプと交際している。



       2006年1月に中国から当時14ヶ月の女児(デイジー・トゥルー)を養子に迎える。


       民主党支持者であり、ベジタリアンである。


       近年は低迷期のようですが、女優という職業は「私生活」をも乗り越えなければならない場面が多々あるようです。才能ある彼女であると思いますので、今後の復活を期待します。

       

       
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      グレース・ケリー

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         グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly、1929年11月12日-1982年9月14日)は、モナコ公国レーニエ3世大公アメリカ合衆国の元女優


         
         同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的に、グレースの気品を湛えた美貌は「クール・ビューティー」(cool beauty)と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの王族と結婚し女優業から引退した。


         
        1929年ペンシルベニア州フィラデルフィアアイルランドカトリックの裕福な家に生まれた。父:ジョン・ブレンダン・ケリーは貧困層出身であったが、一代で建築業をもって成功した億万長者でオリンピックボート競技金メダル選手。母:マーガレットはドイツ系で元モデルであり大学講師だった。父方の伯父は、劇作家:ジョージ・ケリー




         少女時代はおとなしく、赤い頬の人前に姿を現すのが苦手な子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが一番不器用であったという。その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。

         ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。
        ニューヨークでモデルのアルバイトをしながら演技を学び、1949年に舞台『父』でブロードウェイデビューした。グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、1951年、22歳で映画に出演しデビュー(『Fourteen Hours』)。この作品を見たスタンリー・クレイマー監督が『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。



         1954年
        に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。



         非常に恋多き女性として有名で、ゲイリー・クーパークラーク・ゲーブルレイ・ミランドビング・クロスビーウィリアム・ホールデンオレグ・カッシーニジャン=ピエール・オーモンなどの男性と浮名を流した。父親が彼女に冷淡な癖に、異性との交際には異常なほどうるさかったことも、背景にある。



         カンヌ国際映画祭
        で知り合ったモナコ大公レーニエ3世(在位1949年 - 2005年)と結婚。公妃となるため女優業を引退、1956年のミュージカル映画上流社会』が最後の作品となった。なお、1966年の麻薬撲滅キャンペーン映画『悪のシンフォニー』にはグレース妃として特別出演している。挙式は、カトリックの伝統に沿い、グレースの出身地であるアメリカで行われることも検討されたが、最終的にはモナコで行われることになった。


         1956年1月6日、婚約を発表。同年4月18日モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われた(The Civil Wedding)。翌4月19日モナコ大聖堂(サン・ニコラ大聖堂)にて、カトリック式の挙式が行われた(The Cathedral Wedding)。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。女優から公妃へ、グレースの華麗な転身は世界中で人気を集め、モナコのイメージアップに多大に貢献した。



         
        1981年(昭和56年)、来日して神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)や京都を訪れて、有馬温泉の老舗旅館に宿泊した。


         1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡(52歳)。この事故死を受けてモンテ・カルロでは1日全てのカジノの営業を中止して喪に服した。


         同乗していた次女のステファニー公女(当時17歳)は軽傷であり、9月26日に退院した。現地報道では、一時情報が錯綜し、ステファニー公女が運転していたとも報道された。真相は不明のままである。


         9月18日、モナコ大聖堂にて葬儀が行われ、各国の王族・要人の他、フランク・シナトラらハリウッド俳優も参列した。

         非業の死とも言える交通事故死も、彼女にとっては「天寿」言ってよいのではないだろうか。
        なぜならそれは彼女しかできない人生を送り、今もなお語り継がれているからである。


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        ウィノナ・ライダー

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           ウィノナ・ライダー(Winona Ryder, 1971年10月29日 - )は、アメリカ合衆国女優



           本名はウィノナ・ローラ・ホロウィッツ(Winona Laura Horowitz)で、出生地である
          ミネソタ州ウィノナにちなんでつけられた。東欧ユダヤ系の両親がヒッピーだったので、幼い頃からコミューンで育つ。後見人は心理学者のティモシー・リアリーである。11歳の時に父親が再婚。父は作家兼出版業者、継母は教育ビデオの制作者。継母の連れ子の兄姉と異母弟がいる。


           高校では芸能活動をしていたことや華奢でボーイッシュな容姿を理由に酷いイジメを受けていた為、通学を免除されリポート提出をもってそれに代わる処置を施され卒業する。女優として全盛期だった10代の頃に境界性パーソナリティ障害を患っていたということを後に告白している。



           12歳の時にオーディションに合格して舞台に出るようになる。1986年の『
          ルーカスの初恋メモリー』で映画デビュー。


           1989年、スクールカーストをシニカルに描いた『ヘザース/ベロニカの熱い日』で青少年の支持を得、1990年の『恋する人魚たち』ではゴールデングローブ賞 助演女優賞にノミネートされる。1993年の『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』ではゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞、また同作ではアカデミー助演女優賞等、主要な映画賞にノミネートされた。その翌年には『若草物語』でジョー役を演じ、アカデミー主演女優賞候補になる。



           『17歳のカルテ』ではプロデューサーとしても手腕を発揮した。


           2000年にはそれまでの功績が称えられ、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前が刻まれた。



           1989年から1990年までは俳優の
          クリスチャン・スレーターと交際。1990年から俳優のジョニー・デップと交際を始め、婚約するが、1993年に破局。ミュージシャンのデヴィッド・ピルナーや俳優のダニエル・デイ=ルイスマット・デイモンと交際した時期もあったが、近年はミュージシャンのブレイク・セネットと交際していていたが、別れている。


           2001年12月13日にロサンゼルスのブティックで約5500ドル相当の商品を万引き窃盗の疑いで逮捕された。2002年11月6日に裁判が行われ、3年の保護観察と480時間の社会奉仕、1万ドルの罰金という有罪判決が下された。2004年には「重罪」から「軽犯罪」に減刑された。



           尊敬する女優として、その演技力の高さと母親業を両立させているということからケイト・ウィンスレットの名を度々挙げている。


           特別な環境で育ったとはいえ、犯罪は許されない。その後、社会復帰し、10作品に出演している。今後の活躍に期待したい。

           


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          シャロン・ストーン

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             シャロン・ストーン(Sharon Stone, 本名:Sharon Yvonne Stone, 1958年3月10日- )は、アメリカ合衆国女優



             
            ペンシルベニア州出身のアイルランド系。子供の頃IQが154と高かったことも有名。飛び級により15歳で高校に進学した年に奨学金を得て州立エディンボロ大学演劇科に進むが中退。その後ミス・ペンシルベニアコンテストで優勝。ニューヨークでフォード社のファッシン モデルで成功を収め、念願の映画デビューを果たす。


             1980年にウディ・アレンの作品『スターダスト・メモリー』の端役で映画デビュー。以降B級作品で活躍していたが1990年の『トータル・リコール』でアーノルド・シュワルツェネッガーの相手役で注目され、同監督の『氷の微笑』では、セクシーでミステリアスな小説家を演じ一躍世界的なセックスシンボルに躍り出た。取調室で足を組みかえるシーンは、数多くのパロディ作品に出てくる。



             1996年の第53回ゴールデングローブ賞のドラマ部門において、映画『カジノ』で、主演女優賞を受賞。


             2004年の第56回エミー賞(The 56th Primetime Emmy Awards)のドラマ・シリーズ部門において、『ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル』で、ゲスト女優賞を受賞。


             日本では、銀座ジュエリーマキヴァーナルのCMキャラクターに起用されていた。




             助監督と1984年に結婚するが1987年に離婚。その後ジャーナリストと1998年に結婚するも2004年に離婚。3人の養子(全て男子)がいる。


             映画『トータル・リコール』(1990)の公開から間もないとき、ロサンゼルスサンセット大通りで事故にあった。彼女は事故後すぐに家に帰り、脳震盪を起こしていたことには気づいていなかった。目が覚めたときには完全に麻痺状態にあり、三日間もの間床の上に横たわり泣くしかなかった。最終的に彼女が病院に行けたとき、その脳震盪は肩と顎の骨の脱臼と複数の肋骨の骨折、三つの椎間板の圧迫によるものだと診察された。


             長い間、メンサの会員であるとの噂があったが、IQの高い人々のためのいかなる団体にも属したことがないと2002年に語っている。



             チャリティなどにも熱心で、
            エイズ治療研究を支持したり 、同性愛者に対する権利運動に参加している。2005年スイスで行われた世界経済フォーラムダボス会議において、蚊帳がないためにマラリアで命を落としている毎月15万人の子供についての報告をうけて、自ら1万ドルの寄付を宣言し、30人以上のビジネスリーダーから総額100万ドルの寄付金を集め、コンテナ12個分の蚊帳をタンザニアに送った。


             2009年11月20日、東京で、イタリアのジュエリーブランド「ダミアーニ(Damiani(jewelry company)」と共同で手掛けるチャリティ・プロジェクト「シャロン・ストーン フォー ダミアーニ(Sharon Stone for DAMIANI)」に関して、記者会見を行った。彼女は、米国エイズ研究財団(American Foundation for AIDS Research、amfAR)のグローバルアンバサダーを務めており、アフリカにきれいな水を供給することが目的である。




             二人の娘を交通事故とエイズで失った老夫婦の「孫がいなくて寂しい」との声を聞き、その夫婦と養孫縁組をし、正式に自分の祖父母とした。


             チャリティに熱心な女優は多いが、孫を失って悲しむ老夫婦に、自らその夫婦の孫になってしまうという行動力に驚かされる。


             

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            アカデミー賞の歴史 〜  ヴィヴィアン・リー 〜

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               ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh、1913年11月5日 - 1967年7月8日)は、イギリス女優



               
              インドダージリン出身。本名は、ヴィヴィアン・メアリー・ハートリー(Vivian Mary Hartley)。リーの父はイギリス人の株の仲買人で、母のガートルードの祖父のジョン・ヤグジーはアルメニア系、祖母はアイルランド人であり、彼女の黒髪と青い目とエキゾチックな美貌は母親譲りである。リーは上流階級の教育を受けさせたいという両親の希望で、6歳でローハンプトンのセイクレッド・ハート修道院に入所させられ、そこで後の女優仲間となるモーリン・オサリヴァンと出会う。その後、彼女は王立演劇芸術アカデミーを卒業した。


               彼女は1932年にケンブリッジ大卒で13歳年上の法廷弁護士ハーバート・リー・ホルマンと結婚し、彼らの間には1933年に娘のスーザンが生まれたが、リーは女優として大成功することしか考えておらず、娘の養育には殆ど興味を示さなかった。ホルマンは彼女との結婚の間、彼女のマネージャーもしていたが、夫としての本音は女優を引退し家庭的な主婦になってもらうことだった。しかしそれは上昇志向が誰より強く野心のかたまりのリーには無理な注文だった。



               女優としてのリーの経歴は、舞台演劇から始まった。彼女の初出演作は『緑の飾り帯 The Green Sash』であり、彼女をスターダムに押し上げた作品は『美徳の仮面 Mask of Virtue』であった。1935年に彼女は初めて映画『探しだされるもの』に出演した。しかしながら彼女の最も有名な出演作は1939年の『風と共に去りぬ』であった。彼女はハリウッドに進出したイギリスの男優ローレンス・オリヴィエを追って渡米していた。ヒロインの決まらぬまま、撮影所ではアトランタ炎上のシーンが撮影されていた。その場でプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに「スカーレットがそこにいた!」と見いだされたという有名な逸話があるが、セルズニックの息子の証言によると、それはハリウッドによくある宣伝用の作り話で、実際は撮影の2日前、当時オリヴィエのマネージャーを務めていた彼の兄のマイロンに紹介でカメラテストを受けた結果、リーはスカーレットのオーディションに合格していた。そして彼女は主演・スカーレット・オハラ役で第12回アカデミー主演女優賞を受賞した。


               1940年にリーはホルマンと離婚し、オリヴィエと再婚した。オリヴィエとの出会いは1935年に、彼の舞台での勇姿を見たリーが彼に一目ぼれをしたのがきっかけだが、彼女はオリヴィエを自分に振り向かせるために、オリヴィエ夫妻の出入り先を調べてそこへ偶然を装って押しかけて知人同士になり、次に彼の好みや性格を良く知っている妻のジル・エズモンドにも近づき友人となり彼女を手なづけるなど、オリヴィエの愛人の地位を得るための手段を選ばなかった。そしてその交際は次第にエスカレートし人目をはばかることなく行われたが、当時オリヴィエの妻であった女優のジル・エズモンドは妊娠していた。ジルは後に男児を出産。しかし彼女もリーが人並み外れた野心的な性格を持ちながらも、その反面あまりにも美しくチャーミングな性格にも魅了されていた面もあり、レズビアンのジルは夫婦の仲を引き裂いた彼女に怒りをぶつけることはなかった。



               1944年に彼女は左肺が結核に感染していると診断された。病気にもかかわらず彼女はソーントン・ワイルダー作の舞台『危機をのがれて Skin of Our Teeth』や、1946年には映画『シーザーとクレオパトラ』に出演したが、それは彼女の結核を悪化させる原因となった。そしてこの映画の撮影中に転倒してオリヴィエとの子供を流産をした。また、サー(Sir)の称号を得た、オリヴィエという偉大な俳優を夫に持った故に、同じく俳優として大成したい、オリヴィエの配偶者としてのレディー(Lady)の尊称ではなく、彼と同等に、女性の称号デイム(Dame)が欲しいという願望に、引き裂かれた。1951年に彼女は映画『欲望という名の電車』でのブランチ・デュボワ役で2度目のアカデミー賞を受賞した。



               1960年代の初めに彼女は二度流産し、結核で体力も衰えていた。さらに彼女は双極性障害に暫くの間悩まされた。双極性障害は彼女の快復の障害の大きな要因と考えられた。彼女は普段は礼儀正しく温和であったが、躁病のときはヒステリーを起こし意味不明な言動で周りを振り回したり、暴言を吐いて暴れることが度重なり(映画巨象の道の強制降板は、このヒステリー発作が出たため)、また性的関係が乱脈になり手がつけられない状態になり(ゴシップとして騒がれた例はオリヴィエの後輩俳優のピーター・フィンチとの浮気など)夫婦関係がすっかり破綻してしまい、オリヴィエが家を出てしまい、1960年に彼女とオリヴィエは合意の上離婚した。「レディー・オリヴィエは、オリヴィエのためなら何でもしてあげます。」と、離婚に同意したという。彼女は後に恋人の俳優ジョン・メリヴェールと同居している間でさえ、周りの人たちに離婚前と同様に自分をレディ・オリヴィエと呼ぶように頼み、ベッドサイドのテーブルに額に入ったオリヴィエの写真を飾っていた。


               二度目の結婚のせいで、ホルマンと娘スーザンを捨てたかたちになっていたが、彼女は二人と連絡を取り合っていた。スーザンが初めて出産したとき、祖母になった彼女は、生まれて間もない孫を抱くことができた。女優のジュリエット・ミルズの名付け親である。他に素晴らしい孫3人にも恵まれた。またオリヴィエの先妻ジルとの関係が良好だったので、彼らとの間の息子とも親しく交際していた。


               リーは慢性的な結核の末、1967年にロンドンの自宅アパートで喀血によって気管を詰まらせて死去した。葬儀委員長は前夫のオリヴィエが務め、生前のヴィヴィアンの希望通り遺体は火葬され、遺灰はロンドンサセックス、ブラックボーイズの近くにあるティッカレジ・ミル湖にまかれた。


               リーはその生涯をイギリスで閉じたが、ハリウッドの人々は彼女の女優としての功績を称え、ハリウッド大通り6773番地のハリウッド名声の歩道に、彼女の名を刻んだ星型のタイルを埋め込んだ。


               『風と共に去りぬ』は、南北アメリカの独立を描いただけでなく、当時の男女の独立も描いている。彼女が演じたスカーレット・オハラは、まさにその象徴といってよい。



                                     

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              田中好子

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                 田中 好子(たなか よしこ、1956年4月8日 - 2011年4月21日)は、日本で活動していたアイドル歌手キャンディーズメンバー女優である。本名:小達 好子(おだて よしこ)。旧姓:田中。愛称はスーちゃん。

                 

                 足立区立第四中学校東京成徳高等学校を経て、東京成徳短期大学中退。


                 夫はスイート・ベイジル会長など務めた実業家・小達一雄。連子の
                楯真由子は継娘。義理の妹は夏目雅子、義理の弟は小達敏昭、義理の姪は小達はるな、作曲家の田中俊亮は甥。


                 
                東京都足立区千住生まれ。実家は田中屋釣具店。ビートたけしの実家が近くにあり、たけしは子供の頃いたずらをしに行った事がある。その愛らしいルックスに反して、子供の頃は男の子をいじめるような腕白振りでガキ大将的な存在だったという。小学校4年生で町内の民謡研究会に入り、発表会で「ソーラン節」等を披露。後の才能の片鱗を窺わせる。




                 1969年昭和44年)、渡辺プロダクションが経営する東京音楽学院に入学。入学後、スクールメイツのメンバーに選抜される。同期生には伊藤蘭太田裕美らがいた。1972年10〜12月、日本テレビ系のヒーロー作品『突撃! ヒューマン!!』に新聞記者・星山ルミ子役で出演。


                 
                1972年(昭和47年)、NHKの歌番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールのオーディションに伊藤蘭藤村美樹とともに合格。この3人組は「キャンディーズ」と命名され、マスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)として活動。また、この年の紅白歌合戦で、橋幸夫(曲は「子連れ狼」)のバック・コーラスや、南沙織(曲は「純潔」)のバック・ダンスを務めた。


                 1973年(昭和48年)9月1日、キャンディーズとして「あなたに夢中」で歌手デビュー(コーラスパートはメゾソプラノ)。ニックネームは「スーちゃん」(好子の“好”という字が「すき」の「す」であるため)。キャンディーズのメンバーでは最年少であった。ついでながら伊藤や藤村からは、スーさんと呼ばれていた。



                 デビュー曲の「あなたに夢中」から4曲目の「なみだの季節」までは、歌唱力を評価されてキャンディーズ初期のセンター位置のリードボーカルを担当した。その間はヒット曲に恵まれず、その後5曲目の「年下の男の子」以降殆どは、メインボーカルを伊藤に譲り、向かって右の立ち位置でコーラスを務めた。


                 1977年(昭和52年)以降は、歌手としてだけではなく、作詞作曲(共作ふくむ)も行う。作品に「LOVE ME LOVE ME」「ミッドナイト・ハイウェイ」「私の彼を紹介します」「季節の別れ」「一番星さん」「なんとなく」「午前零時の湘南道路」「PLEASE COME AGAIN」「いけない人」「土曜日の夜」がある。



                1978年(昭和53年)4月4日キャンディーズは解散した後、一時引退。


                 
                1980年(昭和55年)、芸能界へ復帰し、ソロシングル1枚を発表。その後は女優業に専念した。



                 1989年(平成元年)に公開された『黒い雨』で、主役・「高丸矢須子」役を演じ、日本アカデミー賞ブルーリボン賞キネマ旬報賞毎日映画コンクール報知映画賞などで主演女優賞を受賞。日本アカデミー賞などでは作品に対しても大賞を受賞し、第42回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上演された。また、原爆症の表現の為に、入浴シーンで体の変化を表現する為に敢えてヌードになり話題を呼んだ。その頃から、演技派女優の評価をされた。


                 1991年(平成3年)5月21日、実業家の小達一雄夏目雅子の実兄で小達は再々婚)と結婚(結婚は夏目が亡くなった後だが、生前から夏目と親交があった)。挙式・披露宴には、両家の親族や田中のプロダクション関係者らごく内輪の人たちだけが出席した。


                 テレビでは、1983年(昭和58年)から1984年(昭和59年)の連続テレビ小説おしん』のおしんの養女「田倉初子」役や、1994年(平成6年)の『家なき子』(日本テレビ)でヒロインの母・「相沢陽子」役、2001年(平成13年)の連続テレビ小説ちゅらさん』では主役の母・「古波蔵勝子」役などを演じた。映画では、1999年(平成11年)の『鉄道員(ぽっぽや』で同僚の妻・「杉浦明子」役、2003年(平成15年)の『鏡の女たち』で主要キャストの「尾上正子」役などを演じた。


                 田中には、継娘にあたる真由子が居たが、自身に子供は生まれなかった。しかし、女優としては母親の役を当てられることが多く、田中の子供役として共演した経験のある俳優は男22人、女25人で合計47人にものぼる。田中の葬儀の際、夫の小達一雄は「(好子は)22男25女、合わせて47人もの子供に恵まれた。好子はそのすべての子供たちを心の底から愛していました」と言い、その名母親役ぶりを称えた。




                 また女優以外にも、夫の小達一雄が夏目雅子の実兄であることより
                夏目雅子ひまわり基金の活動、厚生労働省の公衆衛生審議会委員、国立国際医療センター顧問、エイズ予防財団及び日本エイズストップ基金運営委員なども務めた。


                 結婚翌年の
                1992年(平成4年)に乳がんが見付かり、幾度か再発を繰り返したが、いずれも早期発見で秘密裏に治療を受けながら芸能活動を続けていた。これらの事実は、田中の死去直後の記者会見において、夫の小達一雄により初めて公式に明らかにされた。闘病の事実は親族のみに伝えられ、盟友である伊藤蘭藤村美樹ですら、伝えられたのは死の約3年前で、共演者には一切明かされていなかったという。


                 2010年(平成22年)10月に十二指腸潰瘍を患い、その治療のため絶食をしたことで体力・免疫力が低下、乳がんが再発。2011年(平成23年)2月には、がん細胞組織が急激に増殖するラッシュ状態となり、肺や肝臓にもがんが転移した。


                 2011年(平成23年)4月21日午後7時4分頃、懸命の治療も甲斐なく、国際医療福祉大学三田病院にて逝去。55歳没。長年の盟友だった伊藤蘭藤村美樹は、田中が危篤状態になった際、「2人とも家族同然だから」という親族の計らいで病室に呼ばれ、田中が息を引き取るまで、7時間にもわたって田中の名前を呼び続けていたという。


                 通夜は4月24日、葬儀・告別式は25日に青山葬儀所でそれぞれ営まれた。棺と葬儀場の
                絨毯は田中のキャンディーズ時代のイメージカラーだったで彩られた。戒名は、春芳院妙純日好大姉。



                 葬儀では藤村美樹が「私たちは永遠にキャンディーズだから」と語りかけ、伊藤蘭は「もう一度だけでいいから、(キャンディーズの)3人で逢いたかった」と涙を堪えながら弔辞を読んだ。


                 葬儀の最後の喪主の挨拶の中で、本人のラストメッセージとなるの肉声録音テープ(約3分20秒)が流された。映画の撮影を模した形でテープが公開され、テープが流される前及び流された後に、夫がカチンコを鳴らしたり撮影の掛け声を掛けた。その後、棺に花を入れていく「最後の別れ」は、一般より長い40分続いた。出棺の時には、キャンディーズ時代のデビュー曲「あなたに夢中」が流される中、日本キャンディーズ協会のメンバーなどが霊柩車に向けて、青いテープを投げ入れ最後の別れを告げ、遺体は品川区桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。


                 田中好子は「自分が亡くなったときに集まってくれた人に聞いてほしい」と亡くなる約3週間前の3月29日に病室で自身の肉声のメッセージを録音した。告別式の最後に夫である小達一雄が喪主あいさつの中で紹介した。


                 田中の逝去の報に、『
                家なき子』で共演した安達祐実をはじめ、NHK連続テレビ小説ちゅらさん』で共演した国仲涼子毎日放送の単発ドラマ『筆談ホステス』で共演した北川景子など、田中と映画、ドラマ等で共演した多くの俳優や女優、長年のキャンディーズフリークとして知られている自由民主党政務調査会長石破茂などが追悼の辞を発表している。


                 2011年現在における40-50代の男性の中には、未だにキャンディーズの根強いファンが多数いることもあって、民放のワイドショーやニュース番組はもとより、芸能ネタは単なる訃報のみで終わる事が多いNHKさえも、ニュース7ニュースウォッチ9で時間を割いて通夜・告別式の様子を伝えた。特に、ニュース7キャスターの武田真一アナは自らも田中のファンであるとホームページで公言しており、肉声録音テープを流した直後は言葉に詰まっていた。


                 2011年7月6日放送の徹子の部屋では、追悼特集(番組への出演歴がある故人)として田中の特集も放送され、黒柳は言葉を詰まらせながら田中との思い出を語っていた。田中の盟友である伊藤蘭の娘・趣里は、2011年8月1日、女優デビュー後初の記者会見の場で、尊敬する女優として田中の名を挙げ、「私もスーちゃんのような女優さんになりたいです」と語った。


                 墓所は東京都府中市多磨町多磨霊園の小達家墓所。




                 キャンディーズ時代の一人として、田中好子(スーちゃん)の存在は特別なものとなった。中学生の頃は、キャンディーズのファンとして、その後は女優田中好子のファンとして彼女を見てきた。屈託のないその笑顔、誰に対しても変わらぬ謙虚さ、かと言ってかしこまらないユーモア持ち主。多くのファンの中で今も「スーちゃん」は生き続けている。 



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                シャーリーズ・セロン

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                   シャーリーズ・セロン(Charlize Theron, 1975年8月7日 - )は、南アフリカ共和国出身で、ハリウッドで活躍する女優。 身長173センチ。 苗字のセロンは正式には「トゥロン(Tronn, Te-ron)」と発音するが、アメリカ人からは、「ゼアロン(There-on)」と呼ばれるので、発音しやすい「スロゥン(Thrown)」に変えたと本人が語っている。公式には、シャーリーズ(shar-LEES:「リー」にアクセントがある)・セレン(THAIR-en)と呼ばれる。



                   
                  南アフリカ共和国ハウテン州ベノニで道路建設会社を経営していたフランス系の父親チャールズと、ドイツ系の母親ゲルダの間に一人娘として生まれる。一家は幼い頃からアルコール依存症の父親による家庭内暴力に悩まされていた。

                   
                   15歳の頃、晩に酔って帰ってきた父親に暴力を振るわれ、娘の命の危険を感じた母親が父親を射殺してしまうという事件が起きる(母親に対しては、
                  正当防衛が認められた)。その後、母親は破産寸前だった会社を5年で立て直す。


                   16歳の時に地方のモデルコンテストに優勝、モデルとして
                  ミラノパリで活動し、一年後、バレエ学校で学ぶために、アメリカニューヨークに移住する。彼女はそこでバレエ・ダンサーを夢見て日々挑戦を続けていたが、不運にも膝の怪我でその夢を断念せざるを得なくなる。なお現在の公称身長177cm。



                   その後、女優を目指しロサンジェルスに移るが、仕事がなくその日暮らしの困窮生活を送る。手元にあった小切手を現金化しようと銀行を訪れた際に、その小切手が期限切れで、銀行員に現金化を頼み込むが素っ気ない態度で対応されたため激怒、その銀行員と口論していたところを現在のマネージャーにスカウトされ、本格的に女優活動を始めることに。


                   1995年に映画『アーバン・ハーベスト3 ザ・スケアクロウ』のエキストラ出演を経て、1996年に『2 days トゥー・デイズ』で映画デビュー。この作品で一躍知られるようになるが、「セクシーなブロンド役」ばかりのオファーが寄せられた。その後はドラマやサスペンス、アクションなど、様々なジャンルの作品に出演し、トップ女優としての地位を築く。


                   2003年の『モンスター』で実在の連続殺人犯アイリーン・ウォーノスを演じるため、自ら関係者を取材して、役作りのために10kg以上体重を増やした。この作品でアカデミー主演女優賞ベルリン国際映画祭銀熊賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)などを受賞。


                   2006年の米『The Hollywood Reporter』誌にて、上位7番目の高額出演料女優として記された。2007年の米男性誌『エクスワイアー』にて、「最もセクシーな女性」に選ばれた。



                   2005年10月から2006年12月までスイスの高級時計レイモンド・ウエイルの広告塔を務めていたが、契約時期にクリスチャン・ディオール(セロンはディオールの広告塔も兼任)の時計を身に付けた写真を撮られたことから、ウエイル社から契約違反として2000万ドル(約20億)の賠償金を求めて訴えられてしまった。2008年11月に示談が成立した。


                   
                   エレガンスな美貌とスレンダーに引き締まった体で女性人気も高いが、『
                  モンスター』に出演する際、セロンが突きつけられた課題は14キロもの増量で、そのため、脂質や糖分をたっぷり含むドーナツを大量に食べ、毎日ダラダラと過ごした。結果、贅肉が背中や脇腹にたっぷりとたまり、ウエストのくびれは痕跡すらなくなり、あまりの変貌ぶりに、飼っていた愛犬まで逃げ出したという。さらに、役になりきるため眉毛を全部抜き、持ち前の美しさを完全に拭い去ったという。またその後徹底したダイエットとエクササイズに取り組み、セロンはわずか4週間で14キロの減量に成功。しかし本人曰く、過酷なエクササイズは苦手らしく、太る時より痩せる時の方がきつかったと漏らしていたという。それでも努力を重ね、なんとか体重を元に近い状態に戻し授賞式に臨んだ。『プロメテウス』で謎の美女メイディスを演じる際はボディラインが一目で分かるウエストの非常に細いコスチュームを常に着るため、さらに激しいトレーニングを行って余分な脂肪を完全になくし、腹筋が8つに割れるほど体を引き締めた。それでもウエスト50センチのこの衣装は着るのも脱ぐのも大変で、下着さえも激しく体を締め付けていたという。




                   
                  母語はアフリカーンス語であり、英語はテレビを観て勉強したという。


                   過去に俳優のクレイグ・ビエルコやミュージシャンのステファン・ジェンキンスと交際。2001年から『コール』で共演した俳優のスチュアート・タウンゼントと交際(同棲)。2005年にアメリカで「同性愛者同士の結婚が法的に認められるまで、恋人のスチュアート・タウンゼントと結婚はしない」と発言し、同性愛に対する人々の理解を深めたとしてGLAADメディア賞の名誉賞を受け取った。2007年9月12日にトロント国際映画祭スチュアートと共に結婚指輪を披露。愛し合う二人に国家や教会からの証明は不要と述べ、正式に届けを提出したわけではないが、事実上の結婚宣言をした。しかし、2010年に破局が明らかになった。2012年3月には男の子を養子にとっている。名前はジャクソン。


                  2007年にアメリカの市民権を取得。

                  2008年11月に国連平和大使に任命された。

                  2009年12月、2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会の組み合わせ抽選会で司会を務めた。



                   15歳の頃の悲劇的な体験を乗り越え、夢を断念せざるを得ない挫折も経験した彼女。運命的とも言うべきマネージャーとの出会いは、偶然は必然との人生劇場の始まりを思わせる。今後のさらなる活躍を期待する。


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                  ブルック・シールズ

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                     ブルック・シールズ(Brooke Shields, 1965年5月31日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク市出身のモデル女優。本名はクリスタ・ブルック・カミール・シールズ(Christa Brooke Camille Shields)。身長183cm。



                     
                    レブロンの重役で、ローマの銀行家・貴族のトルトニア家出身の父親(イタリアの公爵・メディチ家の血を引く)と、元女優の母親の父の下に生まれ、母親のマネジメントで、わずか生後11ヶ月歳の時にアイヴォリー石鹸のモデルに起用される。その後両親は離婚し、アメリカで一番の高額ギャラを得る人気子供モデルとなる。


                     1977年ホラー映画『Alice, Sweet Alice』で主人公の妹役で映画デビュー。1978年ルイ・マル監督の『プリティ・ベビー』で12歳の娼婦を演じセンセーショナルな話題を呼んだ。




                     1980年の『青い珊瑚礁』や1981年の『エンドレス・ラブ』などにより、世界的に人気を集め美人の代名詞とされるようになる。また20歳の時にはエッセー『私のライフ・スタイル』を出版。プリンストン大学在学中は学業に専念し、首席で卒業した。また学生時代、俳優ディーン・ケインと交際していた。



                     1997年4月19日、男子プロテニス選手のアンドレ・アガシと4年間の交際の後に結婚。この頃シールズはテレビ・シリーズの『ハロー・スーザン』(原題“Suddenly Susan”)に出演中で、成人後低迷していた女優業は再び充実してきていた。ところが夫のアガシのテニスは不調に陥る。結局、2人は2年後の1999年4月に離婚した。


                     アガシとの離婚後、2001年4月にテレビ・プロデューサーのクリス・ヘンチー(Chris Henchy)と再婚。最近はバーンスタインミュージカル『ワンダフル・タウン』(Wonderful Town)の主演などがあり、好評を博した。




                     2003年に長女(ローワン)を出産した後うつ症状になり、抗うつ薬パキシルを使用したことを公表したが、2005年5月にサイエントロジー信者であるトム・クルーズがこれを名指しで批判した。クルーズの発言は彼女にとって、いわれのない中傷であり、そして彼の評判を下げる結果ともなったが、後日クルーズ自身から謝罪を受け、2人の仲は回復している。(奇しくも、シールズの二女(グリア)とクルーズの二女(実子)は同日に同じ病院で誕生した。)


                     成人してからは映画女優としての活動は成功を収めているとは決して言えないが、舞台やテレビドラマで着実に実力を付けてきた。



                     マイケル・ジャクソンとは子供のころからの付き合いで、彼の追悼会で涙を浮かべスピーチする姿が全世界に伝えられた。


                     親日家であり日本では多数のテレビCMなどで親しまれてきた。フジテレビ新春スターかくし芸大会』で和太鼓演奏を披露したり、彼女のファンだと公言されていた皇太子徳仁親王とも交流がある。


                     彼女の父方の祖父であるフランク・シールズ1909年 - 1975年)は、テニス選手として1930年代前半に活躍し、国際テニス殿堂入りしたほどの名選手であり 、その後1930年代後半に3年間ハリウッド俳優としても活動した人物である。フランク・シールズの2番目の妻(ブルックの祖母)の兄にあたる第5代チヴィテッラ=チェシ公アレッサンドロ・トルロニアの妻のベアトリス・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグは、現在のスペイン国王ファン・カルロス1世のいとこであるので、血縁関係こそは無いが彼女はスペイン王家とイギリス王家の遠縁にあたる。また父方の曽祖父の第4代チヴィテッラ=チェシ公マリノ・トルロニアはアメリカ東部の上流階級の女性と結婚したが、その女性の兄弟の孫が女優のグレン・クローズである。元々このトルロニア家は18世紀にフランスにのオーベルニュ地方で枢機卿をしていた人物の給仕係としてローマに連れて来られたフランス人の貧しい元農民を始祖とするが、その人物の息子や孫がローマで実業家・銀行家に転身し大成功したことで、18~19世紀にかけてローマとヴァチカンを支配することになった成り上がり者の一族である。しかし婚姻を通じて中世からローマを支配した名門貴族のオルシーニ家ボルゲーゼ家と親戚になったことで、彼らを通してメディチ家エステ家旧イタリア王家のサヴォイア家とも遠戚になった。また父親の再婚相手の前夫はアメリカの名家オーチンクロス家出身なので、この家を通して作家のゴア・ヴィダルジャックリーン・ケネディとも系譜は彼女は繋がっている。



                     10代でセンセーショナルなデビューを果たした彼女も決して、順風満帆な人生ではなかった。しかし、彼女には生来持った魅力があった。それは家系も含め彼女の財産であろう。今後の人生に期待する。

                     
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                               トム・クルーズ

                    0


                       前回の「ジョニー・デップ」の中で少しだけトム・クルーズに触れたが ジョニーとトムを
                       
                      比べるつもりはなく また 比べることの出来ない 魅力あるふたりである。

                       ご存知のようにトム・クルーズの名を一躍有名にしたのが1986年に上映された「トップ

                      ガン」である。以降 次々ヒット作に出演し アクション大作からヒーュマンドラマ 社会派

                      作品から作家性の強いアート系作品と 出演作は幅広い。

                       「7月4日に生まれて」(1989年) 「ザ・エージェント」(1996年)でアカデミー賞主演

                      男優賞にノミネートされ 名実ともに一流俳優のとしての地位を手に入れる。1992年に

                      「クルーズ ワーグナー・プロダクションズ」を設立し 1996年の「ミツション・インポッシブ

                      ル」で初めて映画プロデューサー業にも進出する。


                       彼は 幼少時代に学習障害 具体的には 「失読症」(書かれた文章を読む上での障害)

                      を持ち 自身 障害者に関わる映画 「レインマン」 や この障害の理解を推奨するための

                      映画 「デイズ・オブ・サンダー」 も制作主演している。のちにサイエントコロジーの活動

                      (勉強の技術の実践)によりこの学習障害を克服したと語っている。


                       数あるトム・クルーズの作品の中で どれか一番を決めるのはむずかしい。アクション物

                      であれば 「ミッション・インポッシブル」シリーズが好きである。しかし あえて1つ選ぶと

                      2002年公開の 「マイノリティ・リポート」 が心に残る。この映画は近未来の犯罪予防局

                      (司法省のエリート班)を舞台に話が展開するのだが 1回見ただけでは意味がよくわから

                      なかった。2回目見て 何となく理解ができ 3回目で 「そうなんだ」という感じになった。

                      スティーブン・スピルバーグ監督との初共演でもあり その映像は目を見張るものがある。

                      犯罪予知に使われるのが 未来を予知できる能力者3人で このシステムについては

                      言葉で言い表すのは難しいので映像で見てほしい。

                       単なるSF映画ではなく 社会派サスペンスミステリーとでもいうのだろうか。最後はトム

                      自身が犯罪者として予知されてしまうのだが・・・・・。


                       米 トム・クルーズでなぜ 「ラスト・サムライ」 が出てこないと思っている方は 以前に

                         「ラスト・サムライ」として 書いているので ご覧ください!

                      ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル [DVD]

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                      ミラ・ジョヴォヴィッチ

                      0

                          ミラ・ジョヴォヴィッチ(ウクライナ語:Мілла Йововичセルビア語:Милица Јововићラテン文字表記:Mila Jovovićロシア語:Милла Йовович1975年12月17日 - )は、アメリカ合衆国女優モデル



                         
                        ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都キエフに生まれる。父親はコソヴォ出身のセルビア医師ボギチ・ヨヴォヴィチ(Богић Јововић)、母親はドニプロペトロウシク生まれのロシアの女優ガリーナ・ジョヴォヴィチ(ru 旧姓ロギノワ)。

                         キエフからロンドン、モスクワへと移り住み、5歳の時にアメリカ合衆国ロサンゼルスに移住。移住後に両親は離婚。母親と二人三脚で演技を歩み始める。その後父親は再婚し1988年に異母弟が生まれる。

                         
                         その学校時代を通してミラは酷い
                        いじめを経験した。ちょうど冷戦時代のソビエト連邦から来たということが禍して、同級生らから『ロシアのスパイ』『コミー』(commie コミュニストなどと罵倒されていたという。



                         1987年、11歳からロシアのモデルとして
                        (elite)モデルエージェンシーに所属し活躍していた。1988年には化粧ブランドレブロンの「Most Unforgettable Women in the World」に選ばれる。以降、多くの雑誌のカバー(表紙)やミラノパリニューヨークファッションデザイナーコレクションショーに出演している。広告ではカルバン・クライン(Calvin Klein)の香水エスケープ(Escape)のイメージモデルとして有名である。モデルの仕事と同時に映画への出演もしていたが、1991年に女優としての仕事に専念する為に2年の休暇を取りモデルエージェンシーとの所属契約を解除する。




                         映画では1987年トゥー・ムーン』でヒロインの妹役でスクリーンデビューする。1991年にはブルック・シールズ主演映画『青い珊瑚礁』の続編『ブルーラグーン』に主演。その後女優としての目立った活躍は無かったが、1997年にはリュック・ベッソン監督の『フィフス・エレメント』のヒロイン役で見せた演技力、美しさが大きな話題となる。この映画では全ての衣装をフランスのデザイナー、ジャン=ポール・ゴルチエが担当した。1999年の『ジャンヌ・ダルク』や2002年の『バイオハザード』はシリーズ作品として彼女の代表的な作品となる。



                         子供のころから発声とギターを学んだ彼女は、15歳で作曲を始め、“ミラ”の名前で音楽活動もしている。1994年にEMIレコードから発売された「The Divine Comedy」の作曲と歌唱は批評家にも称賛された。バンド“プラスティック・ハズ・メモリー”でコンサート・ツアーも敢行した。目下、レコード第2弾発売のために作曲とレコーディングに取りかかっている。


                         また、モデル仲間のカルメン・ホーク(Carmen Hawk)と共に2003年にJovovich-Hawk(ジョヴォヴィッチ ホーク)というブランドを立ち上げ、ファッションデザイナーとしても活動している。Jovovich-Hawkはロサンゼルスとニューヨークに拠点がある。




                         日本ではオンワード樫山キヤノンホンダ・オデッセイパナソニックCMなどの出演がある。


                         
                        英語の他にロシア語フランス語に堪能。

                         1992年、16歳の時にショーン・アンドリュースと結婚したが直ぐに離婚。1997年に映画監督リュック・ベッソンと結婚するが1999年に離婚。その後、『バイオハザード』シリーズの監督ポール・W・S・アンダーソンと撮影を通して知り合い、交際を経て婚約。婚約中の2007年11月3日に娘エヴァーを出産。2009年8月22日にアンダーソンと自宅で挙式し、三度目の結婚をした。


                         現代的なゲームの世界から飛び出してきたような彼女だが、音楽活動、フアッションデザイナーと多彩な自己表現はその実力を証明している。


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