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    • 2016.04.04 Monday
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    人気アーティスト・ランキング 〜 AKB48 〜

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       AKB48(エーケービー フォーティエイト)は、日本女性アイドルグループ秋元康プロデュースにより、2005年12月に誕生した。



       東京・
      秋葉原東京都千代田区外神田)に専用劇場AKB48劇場」(エーケービーフォーティエイトシアター)を持ち、「会いに行けるアイドル」をコンセプトとしてチームごとに日替わりでほぼ毎日公演を行うことを特徴としている。マスメディアを通した遠い存在だったアイドルを身近に感じ、その成長していく過程をファンに見てもらい、ともに成長していくアイドル・プロジェクトとされている。


       その一方で2009年頃からテレビ番組・CM出演が増加し、現在の日本では「マスメディアで見かけるアイドル」にもなっており、一般的な知名度を上げている。本業以外でも個々で活動するメンバーが増えている。


       非常に大勢のメンバーが在籍していることが特徴。「AKB48」というグループ名からメンバー数は48人であると誤解されることがあるが、実際は正規メンバーと研究生を合わせて100人近い大所帯である。このため、日本におけるグループの高い知名度に対して、人気上位にあるメンバーを除く個々のメンバーの知名度は極めて低いという現象が起きている。


       また、SKE48NMB48HKT48などの姉妹グループが存在する(詳しくは後述)。




       2005年12月8日、AKB48劇場で初公演を行い、2006年2月1日に
      シングル桜の花びらたち」でンディーズデビュー。同年10月25日にシングル「会いたかった」でメジャーデビュー。2007年にはいわゆる「アキバ枠」で「第58回NHK紅白歌合戦」に出場するものの、当時は「秋葉原のオタク向けアイドル」というイメージが強かったこともあり、世間の関心は薄かった。


       2008年の10thシングル「大声ダイヤモンド」あたりから徐々にCD売り上げが高まり始め、2009年には14thシングルRIVER」にて初のオリコンウィークリー1位を獲得すると、その翌年からは次々と大ヒット曲を生み出し、マスメディアから「AKB現象」「国民的アイドル」と呼ばれるほどの地位を得た。2011年には22ndシングル「フライングゲット」で日本レコード大賞を受賞。また第26回日本ゴールドディスク大賞においても、邦楽部門にて「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。


       CD総売り上げは、2011年10月26日の23rdシングル「風は吹いている」発売初週の時点で1034万枚となり、日本の女性グループとしては4組目の1000万枚突破を記録、21世紀にCDデビューした日本のアーティストでは最高売上を記録している。



       AKB48は、「テレビやコンサート会場でしか会うことができない」という従来のアイドルの固定観念を根底から覆し、結成以来「会いにいけるアイドル」のコンセプトのもと、専用劇場での高頻度の公演・徹底したファンサービス(握手会・写メ会や公演終了後の
      ハイタッチサービス等)でアイドルとファンとの距離を縮め、アイドルをより身近な存在にする取り組みを継続して行っている。


       専用劇場(後述)で行われるコンサートは全て「公演」と銘打っており(「ライブ」「コンサート」と呼称されることはない)、2012年現在でもグループ活動の肝となっている。公演は全てオリジナル曲で行われ、オリジナル曲の数は2012年8月現在で400曲を越える。一部の楽曲を除き、総合プロデューサーの秋元康が作詞を行っている。秋元康は1回の公演につき1000曲以上のデモテープを集め、何日もかけてそれを聴きながら使用する曲を選んでいるという。




       メンバー間およびメンバー以外とは恋愛禁止とされている(厳密には片想いはOKだが、両想いは厳禁とされる)。メンバーには、特に初期に加入した者を中心に「AKB48は一つの通過点」という認識を持つ者が多く、全員が歌手を目指している訳ではなく、歌手・声優ファッションデザイナー女優など志望する職業まで様々である。ただし、AKB48が音楽番組などに出演、さらにメジャーデビューしたことにより、AKB48が「結構知ってる存在」になったため、特にメジャーデビュー直後の第三期オーディション以降に加入したメンバーには、AKB48そのものが「大好きで入りたい」という者も多く、大島優子によれば、特に8期生以降の新加入メンバーにはその傾向が顕著となっている。公式ブログのタイトルが示すように、東京ドームでのコンサート開催を目標に置いている。当初は、メジャーデビューを目標にしていた。メンバーが着用する衣装デザイン女子高生の制服をモチーフとした形と思われるがデザイナーの茅野しのぶが一手に担当しており、各楽曲のイメージに合わせてデザインした衣装に、各メンバーのキャラクターや体形に合わせ調整を加えるため、その総数は1000着を超える。2010年代に入り、楽曲「言い訳Maybe」の衣装に使用された赤チェック柄が女性の間で流行するなど、ファッション業界からも注目されるようになっている。なお、実際の製作作業には、京都造形芸術大学も協力している。


       グループ名のAKBの由来は、ホームグラウンドが位置する秋葉原(あきはばら、AKIHABARA)からである。当初募集告知をした際には、「秋葉原48プロジェクト」と銘打っており、
      NTTドコモとのメンバー募集タイアップCMなどを始め、インディーズデビュー当時の各種メディアでは「Akihabara48」とされていたこともあるが、「AKB48」とだけ表記された簡素なロゴマークに自らがアイデンティティを拘束される形となり、後にグループ名も「AKB(エーケービー)48(フォーティーエイト)」に統一された。なお、AKB48は株式会社AKSの登録商標である。



       48の由来は、秋元康曰く「『おニャン子』とか、何か単語が入ると、古くなるので、商品開発番号みたいな無機質なものにしたいという思いはありました」。その名の通り正規メンバーが48人程度(メンバーの加入・脱退などの都合により多少の変動はある)で活動していた時期が長くあった。初期の構想では1軍24人+2軍24人の計48人というものだった。AKB48劇場支配人の戸賀崎智信は、結成当初の所属事務所であるoffice48の社長(芝幸太郎)の好きな数字が48(シバ)であったため、50人程度のグループをつくるなら48人にしてくださいと言われたと述べている。


       今や一代ブームを作り上げ、国人的アイドルからその行動、言動は社会現象にまでなっている。注目度の高さから、個性の表現が難しくなるが、あくまでも彼女たちはチームAKB48であることを自覚している。


       

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      人気アーティスト・ランキング 〜 ゴールデンボンバー (バンド) 〜

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         ゴールデンボンバーは、日本ヴィジュアル系エアーバンドパフォーマンス集団。メディアでの略称は「金爆(きんばく)」。



         
        2004年にボーカル鬼龍院翔とギター喜矢武豊を中心に結成。 エアーバンドという形式をとっているため、基本的にメンバーは演奏しておらず、ライブでは演劇や個性的な振りなど、様々なパフォーマンスを行っている。キャッチコピーは「笑撃のライブパフォーマンスと、奇才・鬼龍院翔の創り出すクオリティーの高い楽曲で注目の究極のエアーバンド」。 鬼龍院翔が作詞作曲・歌唱・ライブの構成や演出、喜矢武豊は体を張ったパフォーマンス及び小道具・動画制作、歌広場淳は曲ごとの振り付け・煽り担当、樽美酒研二はダンス及びパフォーマンス担当である。


        かつて、メジャー7社からオファーを打診されたが全て断っている。




         バンドコンセプトは「ハイパー・ギガ・ハイブリッド・スーパー・サブカル・ビジュアル・ロック」。音源の演奏等の作業は、メンバーではなくゴールデンボンバーの「中の人」とされるeversettatsuoが行っている。


         使用しているロゴは、かつてフジテレビで放映されていた『ゴールデン洋画劇場』のロゴと類似しており、鬼龍院自身もブログで言及している。


         メンバー4人全員が個性的なパフォーマーであり、奇を衒った発言(音楽に興味がない/演奏できない)をしているが、実際はライブではド下手だが楽器演奏を披露することもある。下積み時代が長いため、経費には常に気を配り、準備も無駄にお金をかけないよう極力自分たちで段ボール工作を行っている(QuickJapan105/26頁)。



         2009年には毎月第1日曜日に12ヶ月連続ワンマンや全国46ヶ所でツアーを行い、2010年にはワンマンライブを行った。2011年にもツアーを行い、2012年は1月14日・15日に日本武道館、21日に大阪城ホールでワンマンライブを敢行。3月20日から6月18日までは全国ホールツアーが行われ、ファイナルは横浜アリーナで行われた。 また、ドワンゴにて着うた12ヶ月連続配信を続け、ダウンロード12か月連続デイリーランキング1位を達成した。


         2012年11月30日、鬼龍院の喉の治療のために2013年1月から4月まで活動休止と一部ネットニュースで発表されたが、実際には鬼龍院の歌唱活動を控えるとの意味で、活動休止ではないとすぐに否定した。


         2012年12月31日付オリコンシングルデイリーチャートでは、ゴールデンボンバー関連シングルが13作同時トップ50入りし、再発作品以外で2011年のAKB48を上回る新記録を樹立。




         シングル「Dance My Generation」は、2013年1月14付オリコン週間チャートで初の1位を獲得。インディーズアーティストによる1位獲得は、MONGOL800に続き2組目で、発売初週での1位は史上初。また、同チャートにはインディーズ史上最多となる計11作のゴールデンボンバー関連作品がTOP100入りした。なお、アルバムチャートにもゴールデンボンバーの関連作品が7作TOP180内にランクインした。。


         バンドとしての最初のテレビ出演は2011年1月23日放送の『
        はなまるマーケット』。2011年9月2日、テレビ朝日ミュージックステーション』にて初の地上波ゴールデン生出演を果たした。11月30日にはフジテレビ森田一義アワー 笑っていいとも!にゲストとして出演した。


        2012年10月20日からは、フジテレビにて彼ら初の冠番組となる『金爆一家』が放送されている。



         2012年11月26日、『第63回NHK紅白歌合戦』への出場が発表された。記者会見で樽美酒が「おちんちん」と発言したことが話題となったが、11月29日放送のニコニコ生放送『月刊ゴールデンボンバー』にて、同発言は鬼龍院が樽美酒に言わせたもので、躊躇する樽美酒に「研二さんが言うとポップだから」「出場取り消しになったらそれはそれで面白い」と後押ししたことを明かした。


         12月31日、実際の出演時には、樽美酒のお面を観衆だけでなく審査員にもあらかじめ配り、会場約2600人と一体化する演出を披露。観客全員を巻き込んだパフォーマンスで驚かせたが、「(NHK関係者に)いろいろ怒られて2度としゃべるなと言われ」ていたため、過激なパフォーマンスは控えた。そのため終了後、同局関係者から「よくやった」と握手を求められたという。 しかし年明け1月7日の『ゴールデンボンバー鬼龍院翔のオールナイトニッポン』にて、「NHK側は思っている以上に協力的で怒られた事実はない」と説明。樽美酒のお面の費用は事務所とNHKで折半したと告白した(一方、『週刊女性』2013年1月22日号には、「(お面の費用は)事務所が負担した」と書かれており、NHKが費用を折半したとはされていない。さらに同誌は、お面は1個3000円だとしたほか、事務所側は今後これを商品化するにあたり宣伝になるためこのように無料配布したという)。


         単なるパフォーマーを超えた魅力は、ひとりひとりの個性にある。エアーバンドという茶番をアーティストととして成立させた力は偽りではない。

         


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        イングリット・フジ子・ヘミング

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           イングリット・フジ子・ヘミング(Ingrid Fujiko Hemming) の名前をご存じの方は多いと思う。彼女のピアノの音色は独特で、その生い立ちと重ね合わせて見たとき、さらにその思いは深まるはずだ。音というものに命があるとすれば、まさに彼女の音色そのままである。
           
           私は、プロの音楽家でも評論家でもない。だだ、単なる彼女のファンである。芸術を語る時、そのものを評価することはできない。ただ、自分にとって好きか嫌いかは言うことができる。
           
           私は、彼女のピアノの音色が好きだ。自分自身が色々な事で頭がいっぱいになったとき、自分自身に自信が持てなくなったときに、彼女が日本で初めて出したCD『奇跡のカンパネラ』を目を閉じ聞いていると、こころが落ち着き、勇気が湧いてくる。クラッシックを聞くことが人の心にとって非常に良い関係であることは実証済みである。



           フジコ・ヘミングウェイの人生は、まさに天国から地獄、そして、奇跡の復活を成し遂げる。”奇跡のカンパネラ”を聞く時、自分自身も奇跡を起こすと勇気づけられる。

           日本の政治リーダーの方たちも、時にはクラッシックにも耳を傾け奇跡の決断を断行していただきたい。

            


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           ビージーズ

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             ☆ 永久(とわ)の歌声に心より哀悼の意を表します

             ビージーズ(: Bee Gees)は、英国王領マン島生まれのイギリス人の三人兄弟を中心に構成された、男性ボーカルグループ。1963年にオーストラリアよりレコードデビューし、1973年からは米国を中心に活動。1955年から2003年まで息の長い活動を続け、「Massachusetts」「Holiday」「How Deep Is Your Love」「Stayin' Alive」「Night Fever」など、数多くのヒット曲を発表した。2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝し、グループとしての活動に終止符を打ったが、2009年から活動を再開した。2012年5月、ロビン・ギブが死去。



             ギブ兄弟は、オートバイレースで著名な英国マン島に生まれた。1946年9月1日にバリー、1949年12月22日にロビンとモーリスが二卵性双生児として誕生。1950年に父の故郷、イングランドマンチェスターに移る。


             1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属しキャリアをスタートさせる。自宅の近所には、後に
            ハーマンズ・ハーミッツのリード・ヴォーカルとして英米で大人気を博すピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。1958年、父の仕事の都合に因り家族7人(両親、バリー、ロビン、モーリス、姉のレスリー、末っ子アンディ)でオーストラリアのクイーンズランド州ブリスベンに移住。一番下の弟、アンディ1958年3月5日-1988年3月10日)はマンチェスターで生まれたばかりだった。ここで兄弟は、小遣い稼ぎに唄うようになる。最初のグループ名はラトルスネークス(Rattlesnakes)、その後、ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ(Wee Johnny Hayes & the Bluecats) になった。



             そして3人はラジオのDJ、ビル・ゲイツ(Bill Gates,
            マイクロソフト創業者とは別人)に紹介される。紹介者は、レーサーのビル・グード(Bill Goode)。ゲイツは、自分とグードのイニシャル(BG)から彼らのグループ名をBee Geesとつける。1960年に入るとテレビとラジオのレギュラー番組を持つようになり、1963年にフェスティバル・レコードより『三つのキッス』でレコードデビューする運びとなり、以後は国民的規模の人気を博すこととなる。 英米ミュージシャンの多くは黒人音楽に少なからずも影響を受けたが、ビージーズはエヴァリー・ブラザースからの影響を強く受けた。


             ビージーズはギブ3兄弟を中心に結成されたが、1972年からは完全に兄弟のみの
            トリ編成となった。全員共通してボーカルを担当。

            • バリー・ギブ(Barry Gibb)(1946年9月1日-)・・・長身(182cm)で、ビージーズ結成から数多くの楽曲は彼が作曲し、リードボーカルを担当。70年代中期以降、ファルセット唱法を積極的に導入した。
            • ロビン・ギブ(Robin Gibb)(1949年12月22日 - 2012年5月20日)・・・モーリスとの二卵性双生児で次男。一時的に脱退し、その後復帰した。ソロ活動も積極的に行った。2012年5月20日病死。
            • モーリス・ギブ(Maurice Gibb)(1949年12月22日 - 2003年1月12日)・・・三男。ギター、ベース、そしてロビン同様にオルガンメロトロンビートルズストロベリー・フィールズ・フォーエバーのイントロ部分でも使用された鍵盤楽器)、ハープシコードなどの楽器を演奏することができた。グループのライブバンドのバンドマスターでもあり、ステージではベースやオルガンを演奏することが多かった。2003年1月12日急逝。


             1966年
            にはオーストラリアで最優秀ボーカルグループに選ばれ、翌1967年2月、シングル『スピックス&スペックス』が全豪NO.1ヒットしている頃、オーストラリアでの大人気に着目したビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインは、自らが経営するNEMSエンタープライズに入社したての新人ロバート・スティッグウッドをオーストラリアへ赴かせ、ギブ兄弟にワールド・デビューの契約を持ち掛ける。



             イギリスに帰国したギブ兄弟は、オーストラリア
            クイーンズランド州生まれでロンドン育ちのドラマー、コリン・ピーターセン(1948年生れ)、そしてオーストラリア時代から彼らのレコーディングに度々参加していたシドニー出身のヴィンス・メロニー(1945年生れ)をリードギターに迎え、5人編成として1967年5月にポリドール・レコード本社より『ニューヨーク炭鉱の悲劇』でレコード・デビュー。アメリカでの発売元であるアトコ・レコードアトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約し、話題騒然となる。


             以後、『ラヴ・サムバディ』、『ホリディ』、『マサチューセッツ』(全米11位)、『ワールド』、
            1968年に『ワーズ』、『ジャンボー』、『獄中の手紙』(初の全米TOP10入り)『ジョーク』(同じく全米TOP10ヒット)、同年末にヴィンスがプロデュサー業に転向するため正式に脱退、翌1969年春、3rdアルバム『オデッサ』、シングル『若葉のころ』を発売間もなくロビンがソロ・シンガーになるべく独立(シングル『救いの鐘』は英国のみでヒット)、同年夏シングル『トゥモロウ・トゥモロウ』を最後にバリーとモーリスが一方的にコリンを解雇してしまう、これによって2人となったビージーズは『想い出を胸に』を全英TOP10に送り込むも、翌1970年春先にシングル『I・O・I・O』、アルバム『キューカンバー・キャッスル』発売直後の兄弟喧嘩に因って空中分解。その後、それぞれソロ・シングルを発表するも芳しい結果は出せず、同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は固い結束の下に改めてビージーズとして再出発することを誓う。


             10月に再スタート第一弾アルバム『2Years・On』を発売、翌71年1月にシングルカットされた『ロンリーデイ』を全米3位(キャッシュボックス誌では1位)とし続くシングル『傷心の日々』は念願の全米No.1となるが、アルバムセールスは低調だった。コリン解雇後はジェフ・ブリッジフォードがドラムを叩いていたものの
            1972年春、初の来日公演(日本でもアイドル人気だった1969年に予定されていたがメンバーの脱退などの諸問題で、延び延びとなっていた)寸前に解雇される。


             1973年に、マネージャー兼プロデューサーでもあるロバート・スティッグウッドが設立した
            RSOレコードへ移籍し、アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)でかっては、ヤング・ラスカルズなどを手掛け華々しい経歴の持ち主であるアリフ・マーディンのプロデュースを受け、アルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』をリリース。マンネリ化した従来のストリングスサウンド(1967年〜ステージではバックに30人編成から成るストリングス・オーケストラを付けていた)からリズム主体のファンキーなサウンドへと脱皮を図ったものの、ファンからは『売れるためにサウンドを変えた』と猛反発され、翌1974年のアルバム『ミスター・ナチュラル』も不発に終わる。


             1975年に芸能生活20周年記念アルバムでもある『メインコース』からシングルカットされた『ジャイヴ・トーキン』、『ブロードウエイの夜』がディスコブームに乗り、全米大ヒット。これより第三期黄金時代の幕開けとなる。以後も、ダンスナンバーを中心とするコンテンポラリー路線を手掛け、1978年には半年以上も彼らが手掛けた楽曲がNo.1を占めるなどの快挙を達成(ビートルズ、
            シュープリームスカーペンターズ以来)。1981年のアルバム『リビング・アイズ』がマイナーヒットに終わって以降は、各自のソロ活動と並行して他アーティストへの楽曲提供が活動の中心となり、数多くの全米ヒットを生み出す。


             1987年に
            ワーナー・レコードに移籍し、アルバム『E・S・P』よりシングル・カットされた『You・Win・Again』は、全英TOP10ヒット。1989年には、シングル『One』が久々に全米TOP10ヒットになるものの、Rolling Stone誌では"Unwelcome Back Band"と酷評される。モーリス死亡後はロビンは再結成の意向はないと表明したが、現在では必ずしもこだわってはいない、とのこと。


             ディスコで大人気を誇っていたビージーズのナンバーを大きく取り入れた映画『
            サタデー・ナイト・フィーバー』が、1977年に公開された。1998年にミュージカル版もロンドンで製作され、翌年にはブロードウェー公演も果たし、日本公演は2003年新宿コマ劇場で行われた。続編である映画『ステイン・アライブ』もヒットする。



             全世界で2億3,000万枚を超えるレコードを売り上げているビージーズは、現在に至るまで
            ビートルズエルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンポール・マッカートニーと並んで、歴史上最も成功した上位5ユニットのアーティストに数えられる。彼らの楽曲は古くはエルヴィス、近年はデスティニーズ・チャイルドといった日本においても知名度の高いアーティストらによってカバーされている。1971年から1979年にかけて米国ビルボードチャートに9曲のナンバーワンヒットを送り出した。1978年3月には、製作に携わった4つの楽曲が上位5位にランクインした。この記録は、ビートルズが1964年4月に上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である。1977年の最終週から1978年の8月までの32週に亘り、携わった楽曲が常に1位の座を独占し続けた。イギリスに於いては、ビートルズの28曲に次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。1997年にはメンバー3人全員がアーティストの殿堂、さらにはグループがロックの殿堂、。2001年にはボーカルグループの殿堂、2004年9月20日にダンスミュージックの殿堂入りを果たし、音楽史上初めて4つの殿堂入りを記録した。他にも、「英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト」の栄誉も受賞した。



             メロディ・フェア - Melody Fair (1971年) - 映画『小さな恋のメロディ』の主題歌として、日本でのみシングル・カットされ大ヒットした。中学生のとき観たこの映画に感動したのは、映像と共に流れたビージーズのこの曲が大きく影響していたことは間違いない。


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             ドナ・サマー

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              ☆ 「ディスコの女王」に謹んで哀悼の意を表します

               ドナ・サマー(Donna Summer、1948年12月31日 - 2012年5月17日)は、アメリカ合衆国ポップ・ミュージック歌手。マサチューセッツ州ボストン近郊のドーチェスター出身。グラミー賞を5回受賞した。



               1970年代ジョルジオ・モロダーのプロデュースにより、ディスコ・ミュージックの第一人者として活躍し「ディスコの女王」Queen of Disco)と呼ばれ、一世を風靡した。


               1980年デヴィッド・ゲフィン率いるゲフィン・レコードへ古巣のカサブランカ・レコードから移籍。その後、彼女が「AIDSはゲイに対する天罰である」と発言したとされ、ファンの多くがゲイであったために反感を買ってしまったが、これは根も葉もないデマである。1991年、彼女は正式にこのデマに対する否定コメントを記者会見上で涙ながらに発表している。


               
               
              1990年代から2000年代にかけては、目だったヒット曲はないが、元祖ディスコクイーンたる由縁か、ビルボードのダンスまたはクラブ・チャートにおいてトップ10入りする常連であった。


               2008年5月に9年ぶり(オリジナルアルバムとしては17年ぶり)となる『Crayons』を発表、ここからのシングル3曲「I'm A Fire」、「Stamp Your Feet」、「Fame (The Game)」そして「To Paris With Love」が2008年から10年にかけて4曲連続でビルボードのダンス・チャートで1位になったのは記憶に新しい。「To Paris With Love」は彼女にとってビルボードの各シングル・チャートにおける通算22曲目の1位となった。



               有名になる前、約8年間
              ドイツを中心にヨーロッパで歌手活動をしていたため、ドイツ語が堪能であった。ドイツ語圏の国でテレビに出演する時などはドイツ語で話し、英語は使わなかった。


               1991年に来日公演した時に彼女の髪が金髪だったのは、その年にリリースされたアルバム"Mistaken Identity"のジャケット撮影の直後にその公演が行われたため(そのアルバムのジャケットで彼女は”人違い”の意のタイトルに因んで金髪であった)。よってあの金髪は かつらではなく、染めた地毛であった。


               日本好きであるが、寿司は大の苦手。


               アルバム『クレヨン』に収録されている曲『ブリング・ダウン・ザ・レイン』の著作権収益は紛争の続いているダルフールの援助のために、全額寄付されている。 



               主なヒット曲は『ホット・スタッフ』、『愛の誘惑』、『恋はマジック』、『マッカーサー・パーク』、『バッド・ガール』、『情熱物語』、『イッツ・フォー・リアル』、『アイ・ウィル・ゴー・ウィズ・ユー』、『ラスト・ダンス』 など。


               2012年5月17日(現地時間)朝フロリダで亡くなった。享年63歳 原因は肺癌。 乳がんの闘病生活を続けていたと言われるが、亡くなった原因は肺がんだったと報道されている。 2001年の9.11の際、ニューヨークにいて、アスベストを含む粉塵を吸ったことで肺がんになったと本人は考えていたと一部で報じられている。



               影響を与えたアーティストには、マドンナ 、カイリー・ミノーグ 、ビヨンセ 、レディー・ガガ 他、多彩なメンバーが顔を揃えている。そして、彼女の影響は音楽界だけにとどまらず、政治社会にも大きく影響を与えた。特に、差別社会において彼女の存在は希望の星となった。





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               ジョン・レノン

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                 ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(John Winston Ono Lennon, MBE1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリスミュージシャンロックバンドビートルズのメンバーで、ボーカルギターを主に担当した。


                 出生名はジョン・ウィンストン・レノン(John Winston Lennon)であったが、オノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名。




                 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第5位 。


                 1940年10月9日(18時30分)、第二次世界大戦の
                ナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生時、父・アルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、母・ジュリアも他の男性と同棲していたため、母の姉・メアリー(ミミ伯母さん)夫婦のもとで育てられた。ミドルネームのウィンストンは、当時の英国首相ウィンストン•チャーチルから。


                 1946年父・アルフレッドが帰国し、父に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母・ジュリアがジョンを連れ戻すが、母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫婦のもとで育った。父もまた行方不明になった。


                 
                1952年9月グラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。


                 1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴きロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいる事を知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。ジュリアはジョンにバンジョーのコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。


                 1957年処女作・「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は1962年デッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された)。



                 
                3月、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。 7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人(アイヴァン・ボーン)の紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。エルヴィス・プレスリーチャック・ベリーバディ・ホリーと言ったアメリカロックンロールに夢中になった。


                 
                1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンのクオリーメンへの加入を認めた。


                 1958年
                7月15日、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。この母・ジュリアの死は、ジョンのその後の人生に大きな影響を与え、またすでに(1956年 14歳の時)母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。


                 1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート(Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。


                 この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。ジョンはハンブルクの楽器店で1台目の
                リック325を購入した。 1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルバー・ビートルズ」と変わっていた。 8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。 1961年4月ハンブルクでスチュアートは画家に専念するため脱退。ジョンはすぐにポールを説得してベーシストにする。ポールはヘフナー500/1を演奏することになる。また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るがまもなく脳腫瘍で死去した。 6月ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバックバンドとして「マイ・ボニー」をレコーディングした。


                 
                1961年12月ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者ブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。 1962年1月1日デッカ・レコードのオーディションを受けるも不合格となった。 6月にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月にピートを解雇し、以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーリンゴ・スターが加入した。 10月5日ザ・ビートルズ」としてレコードデビューを果たした。


                 1962年8月23日、シンシア・パウエルが妊娠したのを切っ掛けに彼女と結婚した。


                 シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノン1963年4月8日に誕生した。しかし、両親と生活したことのないジョンは、ジュリアンにどう接すればいいのか分からずに戸惑っていた「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。


                 1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War(日本では
                1993年ビデオで初めて発表。邦題:『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。


                 二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2〜4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。


                 1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。


                 結婚後間もなくジョンはミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチにちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記された。


                 彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスがベトナム戦争の支持を表明したことで、大英帝国勲章を返却した。


                 ジョンの本格的なソロ活動前に二人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3枚のアルバムを発表した。またジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。


                 二人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。


                 ジョンはビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始し、翌69年から1976年に活動を休止するまでプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名で作品を発表した。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズのデビュー以前からの知り合いだったクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケアニ、ピアノは
                ニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。


                 1969年、シングル『平和を我等に』、『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトが参加しており、その模様の映像はDVDスウィート・トロント』に収録されている。


                 1980年12月8日の午前中、自宅アパートの
                ダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる『ローリング・ストーン』掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真(篠山紀信撮影)では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生の頃のネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。


                 フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「
                ザ・ヒット・ファクトリー」へ出掛けた。


                 一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、レノンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」、「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている。


                 22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。


                 警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズベルト病院に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、彼の声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージ輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で23時過ぎに死亡した。レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィングだったという。


                 事件後チャップマンは現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。


                 病院でレノンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠っているということ?」と聞き返したという。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はレノンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。


                 レノンの射殺に関しては、事件発生当時は、レノンの反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、現在は単独犯行として結論づけられている。しばしば犯人は「レノンの熱狂的なファン」と言われるが、実際には彼は特に熱狂的なファンではなかったとされ、また一種の精神疾患的な症状があり、現在この説は疑問視されている。



                 この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。カナダに滞在中だったリンゴは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスン過ぎ去りし日々」(ポール、妻リンダデニー・レインジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。


                 また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」と発言している。


                 日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。


                 ビートルズの中では、「光と影」の存在であるポールジョン陽のポール陰のジョン、どちらが欠けてもグループの存在はなかった。ヨーコとの出会いが、ジョン宗教的普遍性
                開花を遂げる。今もなお、彼の歌声に「平和の叫び」を聞かざるを得ない。

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                 マドンナ

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                    マドンナ (Madonna 本名:Madonna Louise Veronica Ciccone(マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ)、1958年8月16日-)は、アメリカ合衆国ミシガン州出身のシンガーソングライター女優映画監督文筆家実業家。身長164cm。愛称は代表曲から来た「マテリアル・ガールMaterial Girl)」、または「ポップスの女王」とも言われる。



                   
                  1958年8月16日、母の実家のあるアメリカ合衆国ミシガン州ベイシティ(Bay City)マーシー病院で、8人兄妹の3番目に出生。1987年ごろまで1961年生まれということにしていたが、1989年発売のCD『ライク・ア・プレイヤー』のライナーには1958年生まれとはっきり記載があるため、この頃までに元に戻したと思われる。ちなみに同い年で知られるプリンマイケル・ジャクソンも同じく61年生まれと3才偽っていた時期がありこの点でも共通している。

                   父はイタリア系アメリカ人1世のシルビオ・チッコーネ、母はフランス系カナダ人のマドンナ・ルイーズ・チッコーネ。幼少期を、同州ポンティアック市(Pontiac)で過ごし、後に家族が増えたため、同州ローチェスターヒル市(Rochester Hills)へ転居した。

                   父は、GMのデザインエンジニア。実母は、マドンナが5歳の時乳癌で逝去し、父はほどなく再婚した。母の死や後の父・継母との確執は彼女の精神性に大きな影響を及ぼし、「Promise To Try」「Oh Father」などの楽曲で歌われている。弟や妹の面倒もよく見ていた。そんな中でも、多くの習い事を幼い頃からしており、最初はピアノを習っていたが、父親に「バレエを習いたい」と懇願し、変えてもらう。その後、モダンダンスやジャズダンスなど、ダンスを多く習い始める。

                   1977年、35ドルを手にグレイハウンドの長距離バスで郷里を後にニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後、タクシーの運転手に「この街で一番大きな場所へ行って!」と言い、タイムズスクウェアで降りたマドンナは「私はこの世界で神よりも有名になる」と誓った。なお、ベジタリアンとなったのも、ニューヨーク移住後である。

                   1978年 ニューヨークで、『パトリック・エルナンデス・レビュー』にダンサーとして出演。他にも数々の職に就く。この頃出演していた成人映画が有名になってからビデオで発売された。


                   
                  1982年、DJのマーク・ケイミンズの仲介で、ワーナーブラザーズ・レコード傘下のサイアー・レコードと契約。その契約内容は、5000ドルと一曲ごとの印税に出版料として1000ドルを支払うというもの。 そして10月、シングル「エヴリバディ」で歌手デビュー。ビルボードのダンス・クラブ・チャートで最高3位に登るヒットになる。 続く「フィジカル・アトラクション」もニューヨークのクラブでヒット。なお、メジャーデビュー前の楽曲は『Early Years』などのタイトルで非公式に発売されている。

                   1983年、デビュー・アルバム『バーニング・アップ』が発表される。全米で400万枚、全世界で800万枚という成功を収めた。アルバムからは計5曲がシングルカットされ、「ホリディ」、彼女のビルボード初のトップ10ヒットになった「ラッキー・スター」などが発表される。「ホリディ」は全英チャートでは最高2位に登る初のトップ10ヒットになり、その後ワールドツアーで歌われる定番曲になった。音楽性は白人としては珍しくディスコ・ソウルであり、その後もゴスぺルR&Bなどを取り入れたり、ブラックミュージックの要素を持っている。


                   
                  1984年、第2作目のアルバム『ライク・ア・ヴァージン』が発売される。全世界で2000万枚、全11ヶ国でチャート第一位を獲得する。アルバムからの第一弾シングル「ライク・ア・ヴァージン」はメガヒットを記録する。マドンナにとって初のNo.1シングルで、全米チャート6週連続No.1を記録。全世界11ヶ国でNo.1を獲得し、一躍スーパースターの仲間入りを果たした。この頃から プロモーションビデオやステージにおけるセクシーで大胆なパフォーマンス、そして彼女の奇抜なファッションなどが社会的な反響を巻き起こした。「マリリン・モンローの再来」などと言われ、全世界のセックス・シンボルと呼ばれる(なおマドンナはモンローと反対側(右側)の口元にほくろがあることもモンローと比較される一因だったが、1990年代半ばにほくろを除去したとみられる)。全米でマドンナのユニークなファッションを真似たWannaBe's(ワナビーズ)という少女たちが急増し、社会現象になり、PTAは難色を示した。しかしマドンナの人気が衰えることはなかった。

                   1985年1月には、アルバムのプロモーションを兼ねて初来日。当時の人気音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に出演し、「ライク・ア・ヴァージン」を披露。日本でも同曲がヒットチャート上位にランクインした。 同アルバムからの第二弾シングル「マテリアル・ガール」(物質至上主義・拝金主義的な女性という意味)はマドンナ自身の代名詞ともなったが、彼女自身の人間性を表したものではない。非道徳的・反社会的な存在と見られがちだったが、社会貢献活動(特に後のエイズへの啓蒙活動など)に関心を持ち始める。同年7月、「ライヴエイド」に参加。アメリカ・フィラデルフィアのJFKスタジアムからの出演で「ホリディ」、「イントゥ・ザ・グルーヴ」、この為に書かれた「ラヴ・メイクス・ザ・ワールド・ゴー・アラウンド」の3曲を歌唱した。この年、映画『ヴィジョン・クウェスト』にクラブの歌手として出演、そして主演映画『マドンナのスーザンをさがして』も公開された。これらの映画からは、バラードとして初の第一位シングルとなった、「クレイジー・フォー・ユー」と全英第一位となった「イントゥ・ザ・グルーヴ」がそれぞれ生まれている。 8月16日、マドンナ27歳の誕生日に俳優のショーン・ペンと結婚する。

                   
                   2005年、
                  スマトラ沖地震・津波のチャリティ番組"Tsunami Aid:A ConcertofHope"に出演。マドンナはロンドンから出演し、ツアーでも歌ったジョン・レノンの「イマジン」を披露する。7月、世界9ヵ国で開催された「LIVE 8」でロンドン会場に出演。「ライク・ア・プレイヤー」「レイ・オブ・ライト」「MUSIC」の3曲を披露した。8月16日、47歳の誕生日に記念としてプレゼントされた新しい馬にロンドン郊外のウィルトシャー州にある自宅の敷地内で乗馬していたところ、落馬。病院に運ばれたがその日のうちに退院。鎖骨と手首を骨折、肋骨3本にひびが入る全治3ヶ月と診断された。重傷にもかかわらずアルバム発売の予定を遅らせず精力的に活動。「Re-インヴェンション・ツアー」の模様やプライベートなどを収めた14年ぶりのドキュメンタリー作品『アイム・ゴーイング・トゥ・テル・ユー・ア・シークレット』を制作。10月に米MTVで初OAされた。11月、第11枚目のアルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』を発売。全曲がノンストップのダンスチューンで構成され、ファーストシングル「ハング・アップ」は、ABBAの「Gimme Gimme Gimme」をサンプリングした。日本では同アルバムが日本テレビ系列の『ドラマ・コンプレックス』とタイアップし、アルバムの全曲が週替わりで主題歌に起用される。特に11月8日放送で使われた「Future Lovers」は世界初OAとなった。11月3日、ポルトガル・リスボンのアトランティック・パヴィリオンで開催された「MTV Europe Music Awards 2005」のオープニングでマドンナは新曲「ハング・アップ」を初パフォーマンス。シングル「ハング・アップ」が米ビルボードHOT100でTOP10入りを果たし、全米TOP10シングル36曲を保持しているエルビス・プレスリーに並んだ。売り上げは、自身最高となる全米で870万枚を記録。12月5〜9日、アルバムのプロモーションのために1993年以来となる通算5度目の来日を果たす。プロモーション来日としては1985年以来、実に20年ぶりとなる。記者会見、Stadio Coastでのクラブイベント、『めざましテレビ』の単独インタビュー、『SMAP×SMAP』の収録を行った。


                   2006年2月8日、米ロサンゼルスにあるステープルズ・センターで開催された
                  第48回グラミーのオープニングでヴァーチャル・バンド、ゴリラズとマドンナが共演。開催前から、この共演が大きな話題を呼んだ。マドンナは、「ハング・アップ」を披露、ジャン=ポール・ゴルチエがデザインした薄紫色のレオタード姿で貫禄のパフォーマンスを見せつけた。グラミー授賞式の後にロサンゼルスの病院に入院。ヘルニアの手術を受けた。症状は軽く、日頃からダンスやヨガで鍛えてるため回復も早かった。アルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』が全世界40ヶ国でアルバムチャートNo.1を獲得。ポップ・ミュージック史上、No.1最多獲得国数という新記録を樹立した。更に、1stシングル「ハング・アップ」も全世界41ヶ国でシングルチャートNo.1を獲得し、アルバム&シングル共にNo.1最多獲得国数という新記録を樹立させた。5月、通算6度目となる2年ぶりのワールドツアー「コンフェッションズ・ツアー」が2006年5月21日のロサンゼルス公演を皮切りにスタートする。北米を廻ったあと、欧州、そして9月には13年ぶりとなる日本公演が東京と大阪で行われた。特に東京公演の2日目は本ツアー最終公演となり、前日の公演の評判を聞きつけた観客が当日券販売に並び、ステージセットの柱等でステージが見えにくい見切席にも観客が入る程であった。7月、1991年公開のドキュメンタリー映画『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』以来、15年ぶりとなるドキュメンタリー映画第2弾『アイム・ゴーイング・トゥ・テル・ユー・ア・シークレット』がリリースされた。マドンナ初のDVD&CDの2枚組セットでのリリースで、世界各国で大ヒットしている。8月23日、日本だけの来日記念盤として『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア〜Japan Tour Edition』がリリース。オフィシャルとしては初の「ハング・アップ」「ソーリー」のPVとそのメイキング映像を収録したDVDが付いた2枚組。同時に、1990年代〜2000年前半にかけてリリースされたアルバムが限定生産として再リリースされた。9月14日、マドンナが2005年12月以来の9ヶ月ぶりに来日を果たす。関西国際空港には約1000人のファンと報道陣が朝から集まり、マドンナを歓迎した。9月16,17日に京セラ大阪ドームで公演。大阪でのコンサートは、1987年の「Who's That Girl Tour」の大阪球場(当時)以来、実に19年ぶり。2日間の大阪公演で約6万人を動員した。オークション形式で販売された特別席は初日に最高41万円の価格が付きワイドショーなどでも報じられた。9月19日夜、ルイ・ヴィトン六本木店で開催されている写真家スティーヴン・クレイン&マドンナのコラボ「X-STaTIC PRO=CeSS」のオープニング・ゲストとしてマドンナ本人が登場。見に来ていたお客や報道陣からは、大歓声が沸き起こった。ちなみにマドンナはその場でショッピングも楽しみ、サングラスとレザージャケットを購入(お値段はサングラス6万4千円、ジャケットが54万5千円、税抜き価格)。翌日のワイドショー系番組で話題になった。 9月20,21日に東京ドームで公演。東京ドーム公演は1993年の「Girlie Show Tour」以来、実に13年ぶり。初日は、全国各地から4万5000人のファンが東京ドームに集結した。東京初日の公演では大阪と同様、特別席は50万円の値が付いた。マドンナはステージからフロアへ降りファンと握手したり、「レイ・オブ・ライト」ではダンサーがヒーロー戦隊のお面を被って踊ったり(マドンナ本人も知らなかった)、「Japanese Do It Better」とプリントされたTシャツでパフォーマンスしたりした。10月4日、マドンナは自家用飛行機でアフリカ南部のマラウイの首都リロングウェに到着。目的は、エイズ孤児を支援するため500万ドルの慈善事業を展開し、その進展状況を視察するため。この慈善事業で、300万ドル(3億5400万円)をかけ、リロングウェ郊外に約1000人の孤児を収容できる孤児院を設立する計画を立てている。


                   2007年度版の『ギネスブック』でマドンナは「地球上で最も稼いだ女性シンガー」として認定された。これまでの記録は、2000年にブリトニー・スピアーズが稼いだ3,800万ドル(約45億円)が最高だったが、2004年に5,000万ドル(約59億円)を稼いだマドンナがタイトルを奪い取った。映画『
                  プラダを着た悪魔』のイメージソングとして『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』のシングル「ジャンプ」が起用された。更に、1990年の「ヴォーグ」がオリジナル・アルバム以外では初となるサウンドトラックに収録されている。11月、「コンフェッションズ・ツアー」のロンドン公演の模様が米・NBCテレビで放映された。日本では12月30日にWOWOWが放送した。


                   2010年
                  11月29日、フィットネスクラブ・チェーン店の「ハード・キャンディ・フィットネス」第1号店をメキシコ市にオープンした。店は市の高級地区に、3階建て計3000平方メートルでオープンし、マドンナのアルバムから取って「ハード・キャンディー・フィットネス」と名付けられた店は、マドンナの理想とするフィットネスクラブを実現するもので、最新式の心血管系コンディショニング装置を備え、ヨガやブラジルの格闘技的舞踊のカポエイラなども取り入れた革新的なトレーニング方法を用いる。メキシコ店に続いて、アルゼンチン、ブラジル、ロシアのほか、まだ特定はされていないが欧州、アジアの国にも店舗を拡大していく予定という。 10代女性向きのファッションブランドMaterial Girl展開に力を入れた。


                   2012年
                  3月26日、約4年ぶりとなるニューアルバム「MDNA」を発売予定、それに先駆けて2月3日M.I.A.ニッキー・ミナージュをフィーチャリングしたニュー・シングル「ギヴ・ミー・オール・ユア・ラヴィン」をリリースした。

                   2月5日、自身初となるスーパーボウルハーフタイムショーに出演、新曲「ギヴ・ミー・オール・ユア・ラヴィン」に加え「ライク・ア・プレイヤー」や「ヴォーグ」など往年の大ヒット曲も披露、さらにゲストとしてM.I.A.ニッキー・ミナージュシーロー・グリーンLMFAOも登場しステージは大盛況の内に終わった。


                   彼女の功績を「この場」だけで語る事は、困難を極める。途中、端折った部分もあるが、お許しをいただきたい。良きにつけ悪しきにつけ話題に事欠かない彼女である。
                   ただ、言える事は「16歳」で、35ドルを手にニューヨークへ出発し、タイムズスクウェアで降りたマドンナは「私はこの世界で神よりも有名になる」と誓った。その自分との約束を守り通しているということである。

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                    ホイットニー・ヒューストン

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                      『 句碑  − 世界の歌姫に捧ぐ − 』

                           永遠(とわ)に聞く

                              歌姫の声 天高く

                                  真冬の夢と 希望の光

                                             by   minorpoet 
                        

                     
                      

                     ホイットニー・エリザベス・ヒューストン(
                    : Whitney Elizabeth Houston1963年8月9日 - 2012年2月11日)は、アメリカ合衆国歌手女優、元ファッションモデルである。身長173cm。



                     著名なソウルシンガーを親戚に持つ。11歳の時にジュニア・ゴスペル・クワイアに入り、ニュージャージー教会で歌い始めた。ニューヨーク市地域のナイトクラブで、母親とパフォーマンスをしていたところをアリスタ・レコードの社長
                    クライヴ・デイヴィスにスカウトされた。


                     1985年、デビュー・アルバム「ホイットニー・ヒューストン」を発表。アルバムは女性歌手のデビュー・アルバムのベストセラーになる大ヒットとなった。1987年に発表した2枚目のスタジオ・アルバム「ホイットニー」は、ビルボード 200 チャートに初登場1位を記録する(女性歌手では初)。1992年に、初主演映画「ボディガード」が公開される。映画のサウンドトラックは、1994年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞するなど、高い評価を受けた。アルバムからのリカット・シングル「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は自身最大のヒットとなった。


                     ホイットニーは世界で最も売れている歌手の1人である。累計セールスはアルバムは1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上で、アメリカ合衆国のRIAAより「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)4番目に売れている歌手」と評価されている。また、音楽雑誌「ローリング・ストーン」によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、オール・タイムの素晴らしい歌手100人の内の1人であると評価された。


                     「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第34位。


                     ニュージャージー州ニューアークで、父ジョン・ヒューストンと歌手の母
                    シシー・ヒューストンの3番目の子供として生まれた。母シシーは、60年代に活躍したスイート・インスピレーションズのリード・ボーカルで、後にはエルヴィス・プレスリーアレサ・フランクリンのツアーにバック・コーラスとしても参加している。シシーがツアーに出ている間、父親ジョン・ヒューストンが育児を担当した。従妹には、ディオンヌ・ワーウィックディ・ディ・ワーウィックジュディ・クレイなど、ゴスペルやR&B、ポップ、ソウルなど多くのジャンルでヒットを持つ歌手がいる。アレサ・フランクリンは、ホイットニーの名付け親であり代母である。


                     1967年にニューアーク暴動が起こるとイースト・オレンジに引っ越した。幼い頃にニュージャージーのニュー・ホープ・パブティスト教会の聖歌隊に加わり、ゴスペルを学ぶ。11才の時には聖歌隊のソリストとして活躍。教会での最初の単独パフォーマンスは「ガイド・ミー、オー・ゾウ・グレイト・ジェホヴァ」という曲であった。これより少し前にピアノも習い始めた。


                     ホイットニーが10代の時に両親が離婚、母シシーが養育権を得た。ホイットニーはローマカトリック教会の男女共学でない高校に通った。そこで、親友となるロビン・クロフォードと出会う。高校に通う間も母シシーがホイットニーに歌を教えた。

                     
                     10代の頃に
                    モデルとして活動したり、チャカ・カーンらのバックボーカルを務めるなどして頭角を現した。1983年に敏腕プロデューサーのクライヴ・デイヴィスの目にとまり、アリスタ・レコードと契約した。翌年にはテディ・ペンダーグラスとのデュエット曲がヒットした。


                     1985年にデビューアルバム「ホイットニー・ヒューストン」をリリースし、いきなり爆発的人気を獲得した。2作目のシングル「セービング・オール・マイ・ラヴ・フォー・ユー」[から7曲連続で全米シングルチャート1位の記録を打ち立てた。


                     1991年の第25回スーパーボウルアメリカ合衆国の国歌を披露。これは後に語り継がれる名演となり、シングルとしても発売された。この歌唱は10年後にアメリカ同時多発テロ事件のチャリティとして再リリースされ、ヒットしている。


                     1992年、ケビン・コスナーと共演した初主演映画「ボディガード」が公開され、成功を収めた。彼女の新曲6曲を収録したサウンドトラックは全世界で4,200万枚を売り上げ、日本でも当時洋楽史上最高の280万枚を売り上げる驚異的なヒットとなった。カントリー歌手、ドリー・パートンのヒット曲をカバーした主題歌、「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は全米シングルチャートで14週連続No.1を記録する自身最大のヒット曲になった。



                     同年R&B歌手、ボビー・ブラウンと結婚。翌年には一人娘ボビー・クリスティナ・ヒューストン・ブラウンを出産した。


                     その後も主演映画「ため息つかせて」(1995年)、「天使の贈り物」(1996年)が公開される。「ボディガード」には遠く及ばないものの成功を収め、サウンドトラックもヒットした。


                     1998年、オリジナルアルバムとしては実に7年ぶりとなる「マイ・ラブ・イズ・ユア・ラブ」をリリース。翌年にはヴィーエイチワン・ディバス・ライブ 99に出演して高評価を得るなど、再び歌手活動を本格化させた。


                     2000年に
                    ベストアルバムを発売したが、時期を同じくしてハワイの空港で大麻所持で拘束された。激しく体重の落ちた姿が度々見られるなど健康を害し、その後テレビ番組で大麻やコカイン等の常用、セックス中毒であったことを告白している。夫が暴行などで度々逮捕され、離婚説が幾度も報じられるなどのトラブルもあり、週刊誌やテレビ等で私生活を取上げられる事が多かった。


                     2001年、映画「プリティ・プリンセス」の音楽製作に携わる。


                     2004年から翌年にかけてリハビリ生活を続けた。2006年9月13日、ボビー・ブラウンとの結婚生活に終止符を打つべく離婚申請書を裁判所に提出し、同年10月に離婚が成立した。


                     2008年6月には年末にクライヴ・デイヴィスのプロデュースの元、ニュー・アルバムをリリースすると発表した。しかし、この発売は延期され、翌2009年6月になって同年9月1日にリリースすることが報じられた。実際には8月31日(米国)にアルバム「アイ・ルック・トゥ・ユー」が発売され、1週目で30万枚以上を売り上げビルボード200の初登場1位を獲得、復活を果たした。2010年2月の東京公演を皮切りに11年ぶりのワールドツアーも実施した。 しかし英国でのコンサートで息が切れたり、パリ公演では呼吸器の感染症で入院するなど、トラブルが相次ぎ、2011年7月にアルコール・薬物依存からの復帰プログラムを再開 し、2012年1月には破産寸前であると報じられる など、さまざまな問題が続いていた。


                     2012年2月11日に、
                    カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるビバリーヒルトン・ホテル英語版4階の部屋で倒れていたところを発見され、救急隊が20分間にわたって蘇生処置を施したが、同日午後3時55分(現地時間)に死亡が確認された。48歳没。翌12日にグラミー賞授賞式を控え、同じホテルで開かれるクライヴ・デイヴィス主催のグラミー賞前夜パーティに出演する直前であり、パーティーに参加するために滞在していたとのことである。報道によると、ここ数日はひどく疲れた様子だったとのことである。2012年8月に公開される映画「スパークル」が演劇作品としての遺作となった。



                     人は類まれなる才能で、地位と名誉を手にしたとき、多くの絶賛と称賛に値する金銭を手にする。その金銭の周りには、自分の思いもよらない人々が集まってくる。それらの姿を目にしたとき、人の醜さ、嫉妬といった汚い部分を見ずにはいられない。


                     やがて、自分が「ひとつの商品」と化した時、孤独と欺瞞にさいなまれる。自分は何のために生きているのだろうか、この問いが頭をもたげてくる。そして、自分が愛した唯一の家族たちまでもが金銭においてトラブルを起こすことになると、生きる勇気や希望さえも奪いかねない。一度はアルコール・薬物依存からの復帰を目指した彼女である。
                     その世界を魅了した歌声は、永遠に人々の脳裏から離れる事はないはずである。



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                        美空ひばり  3

                    0

                        1988年12月25日、26日と帝国ホテルにてクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中の激しいツイストで観衆を沸かせたが、これが生涯最後のディナーショーとなった。


                       1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日の同年1月8日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わったその日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」という短歌を詠んだ。その3日後の1989年(平成元年)1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。


                       
                       1989年1月15日、テレビ東京放送「
                      演歌の花道」・フジテレビ放送「ミュージックフェア」へ各VTRで出演し数曲を歌ったが、「ミュージックフェア」が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は『美空ひばり特集』だったが、元々同年1月8日放送予定だったものが、昭和天皇が崩御されたため特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。また「演歌の花道」「ミュージックフェア」と各番組の最後で『川の流れのように』を歌ったひばりの姿は、まるでその場にぽつんと魂だけがいるかのように見え、歌い終えた際の表情もまるで最期を悟るかのようであった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せ、肌の色や手の指先も青ざめ明らかに体調は悪化していた。なお1月中のひばりは熱海への家族旅行や両国国技館大相撲見物のほか、自宅での静養が多かったとされる。体調が一時期平行線であっても、好転することはなかった。


                       1989年2月、ひばりにその運命の時が訪れる。この年の全国ツアー「歌は我が命」でスタートさせた同年2月6日福岡サンパレス公演日、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであった。それでもひばりは周囲の大反対を押し切り、翌日の小倉公演までという約束でコンサートを強行した。


                       1989年2月7日、福岡県北九州市小倉での公演がひばりの生涯最後のステージとなる。車や新幹線での移動に耐えられないほど衰えていたひばり。そこで急遽、ヘリコプターでの往復移動となり、会場の楽屋入り後すぐにひばりは横になった。酸素吸入器とともに医師が控え、ひばりは肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤を抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。最悪死に至るリスクを背負ってのステージ。ひばりは命よりもファン、そして歌うことを選んだ。当時同行していた息子・和也も後に「ここの時ほど心細い時はなかった」と話している。開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。またコンサート中は、大半がいすに座りながらでの歌唱であった。息苦しさをMCでごまかすひばりだったが、翌3月に診断される「間質性肺炎」の病状は進行していた。それでも1100人の観衆を前に、ひばりは全20曲無事に歌い終わった。


                       翌日の1989年2月8日から、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。いったんは退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在した。その後、飛行機で東京へ帰京。同年3月21日にはニッポン放送で「美空ひばり感動この一曲」と題する、10時間の特集番組へ自宅より生出演した。しかし結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したために東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院した。


                       
                       再入院から2日後の1989年3月23日、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念により、同年4月17日に予定されていた
                      横浜アリーナでのこけら落としコンサートや、その他の全国ツアーも全て中止、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止を、息子の和也から発表された(再入院当時、間質性肺炎の病名は公表されなかった)。なお和也は、本当の病名をひばり本人には最期まで伏せたが、3月上旬に診療所で診察を受けた医師にひばりは、既に間質性肺炎の説明を受けていたため、自身の病状を分かっていたが、和也には知らないふりをして病室でずっと過ごしていたという。なお闘病生活が書き記されたひばりの付き人の記録では、「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」など、壮絶なものであった。


                       その後も、はっきりと報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の同年5月27日にひばりは、再入院時の写真などとともに「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」というメッセージを発表する。しかしこれがひばりからの、生涯最後のメッセージとなった。それから2日後の5月29日は病室で52歳の誕生日を迎えたが、同年6月13日にひばりは意識不明の重体に陥り、人工呼吸器がつけられていた。なおひばりの生涯最後の言葉は、順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします」だったという。


                       最後まで平和への祈念も絶えず、死の4カ月前まで命を削って歌った。たくさんのファンを最後の最後まで愛していた美空ひばり。再入院後から約3か月の間、壮絶な闘病生活を送り続けていたが、二度と復帰の夢を果たすことなく、ついに1989年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全のため逝去した。52歳没。関係者によると手術室で全身麻酔をかけられたまま逝ったという。


                       同年7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀では4万2千人が訪れた。喪主は息子の和也が務め、葬儀では萬屋錦之介中村メイコ王貞治らが弔辞を読み上げ、北島三郎森昌子藤井フミヤなどひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、美空ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉。墓所は横浜市港南区横浜市営日野公園墓地にある。


                       
                       美空ひばりの通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。


                       1988年、
                      福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の(結果的にこれが最後のレコーディング曲となった)歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。現在は毎年約30万人のファン・観光客がひばりを偲んで訪れる。


                       1993年、京都市嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館となったが、運営主体を「ひばりプロダクション」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名のうえリニューアルオープンした。


                       2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーチャン・ツィイーと共演した。


                       死後20数年を経た現在もなお、日本を代表する伝説的ボーカリストとして多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。レコードの累計売上は8000万枚に達する。


                       2011年には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。


                       「美空ひばり トレジャーズ」は、日本コロムビアの創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「月の砂漠」を含む計30曲が収録された2枚組のCDが収められている。1万セット限定で1万3800円で発売された。


                       「ひばり 千夜一夜」は、1001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。構成は、1949年のデビュー曲「河童ブギウギ」から1989年のラストシングル「川の流れのように」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。「カラオケDVD」が2枚、24曲で1001曲である。(ライブ音源CDを除く)ちなみに「河童ブギウギ」のA面の「楽しいささやき」は含まれていない。特典もついており、「森英恵デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌〜美空ひばり昭和を歌う〜(21曲入りCD)」がある。単一歌手が1000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてであり、最大収録数である。


                       日本コロムビアや 加藤和也など関係者は、ギネス・ワールド・レコーズへの申請を検討している。申請すれば可能性は、高いといわれている。


                       没後の
                      1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞(現在歌手としては藤山一郎と二人だけ)し、息子の加藤和也が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動に関わることになった。

                       

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                          美空ひばり  2

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                         1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも一番うまくプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。


                         1970年、NHK紅白歌合戦の紅組司会を担当。紅白史上初めて、大トリと司会者を兼任した。このときの歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の『人生将棋』。


                         この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになる。


                         1973年、実弟の
                        かとう哲也が起こした不祥事により、ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組のトリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった。


                         1970年代以降、ヒット曲には恵まれなかったが、この時代に入ると演歌歌謡曲のほかにも軽快なポップスやリズム歌謡、ジャズのスタンダードやオペラのアリアに至るまで自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。来生たかお(『笑ってよムーンライト』〈1983年〉)、小椋佳(『愛燦燦』〈1986年〉)、イルカ(『夢ひとり』〈1984年〉)など、時代の話題のアーティスト / クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年に発表した『おまえに惚れた』はこのキャンペーン活動が功を奏す形で久々のヒットとなった。




                         しかし1980年代に入り、1981年には実母・喜美枝が転移性
                        脳腫瘍により68歳で死去、また父親の代わりを担っていた田岡一雄も相次いで亡くなった。1982年には「三人娘」以来の親友だった江利チエミが45歳で急死、さらには2人の実弟だったかとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)が、共に42歳の若さで次々と亡くすという悲運が続く。ひばりは哲也の実子である加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいたタバコの量は日に日に増し、徐々に体を蝕んでいった。


                         
                        1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるようになるが、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりは微塵も感じさせない熱唱を見せていた。だが2年後の1987年(昭和62年)、全国ツアーを四国を皮切りに各地で展開されていたものの、ひばりの足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥った。そして同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、同市中央区福岡県済生会福岡総合病に緊急入院。重度の慢性肝炎および両側大腿骨骨頭壊死診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(ただし、入院当時実際の病名は肝硬変であったが、それをマスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くしていた)。またそれにともない同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院してから約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えていた。


                         入院中の1987年6月16日に鶴田浩二、7月17日には石原裕次郎と、ひばり自身とも親交が深かった昭和の大スターが相次いで亡くなる中、ひばりは8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファンに笑顔と投げキッスを見せていた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。10月9日に行われた、新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より完全復帰した。


                         しかし、ひばりの病は決して完治したわけではなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、特発性大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされていた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩と下りてきたと後に語っている。それが里見自身ひばりとの最後の対面だったという。


                         1988年(昭和63年)初頭はハワイにて静養し、2月下旬に帰国。同年4月に開催予定の東京ドーム公演に向けて下見や衣装、また当日の演出など、準備段階は止められないところまで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復する事はなく、体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える事となる。


                         1988年4月11日、東京ドームのこけら落しとなる「不死鳥コンサート」を実施。ひばり自身は、フィナーレの「人生一路」を歌い終えた際に、思い通りに歌えなかったのか首を傾げたのだという。この頃のひばりは既に体重も明らかに減り、痩せ始めていた。前年の退院会見の頃と比べると一目瞭然であったが、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。


                         なお、東京ドーム公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師が控えていた。また万一の事態に備え、裏手には救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた親友の浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。ベッドに横になっていたひばり。浅丘がひばりに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど、頑張るわ」と答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩を進めたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態ではなかったにもかかわらず、沢山のひばりファンに手を振り続けながら全快をアピール。そのゴール地点には息子・和也が控え、ひばりは倒れこむように和也のもとへ辿り着いたという。当時のマスコミ陣営はひばりの「完全復活」を報道したが、自身にとっては正に命を削って臨んだ舞台となる。それでも「昭和」の終焉に再び輝き羽ばたいた、伝説のステージとなった。


                         
                         その東京ドーム公演後を境に、ひばりの体調は急速に悪化していく。段差を1人で上ることさえ困難であったひばりは、ウォークリフトを使い舞台上にあがるほどの状態であった。ドーム公演終了時点では全国13カ所での公演が決まっており、翌
                        1989年2月7日小倉公演までの10カ月の間、全国公演を含めテレビ番組収録などで精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で一時入院しているが、すぐに仕事を再開。同年7月29日に「広島平和音楽祭」に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残されており、現在の特番でも放映されている。


                         昭和天皇が吐血・重体という報道が絶え間なかった1988年の秋頃から、奇しくもひばりにも命を奪う病の兆候が見え始め、辛そうに肩で息をする映像も残っている。そんな中同年10月28日には、前日神津はづきからのお友達紹介で、フジテレビの人気番組「笑っていいとも!テレホンショッキングコーナーに最初で最後の出演を果たす(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。また、その頃には作詞家秋元康の企画による『不死鳥パート供戮箸梁衞召如∪諺虻埜紊箸覆襯リジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や作曲家見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、奇しくも生涯最後にレコーディングしたシングル曲となる『川の流れのように』(作詞・秋元康、作曲・見岳章)が入っていた。そして、ひばり自ら同曲のシングル化を強く迫り、それは後に形となった。

                         
                         同年12月中旬、翌
                        1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー「春一番! 熱唱美空ひばり」の収録に臨んだ。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばりもスタッフの熱意を肌で感じた。ひばりはまた、演出スタッフに向かって「この番組が最後になるのよ、これ」と話していたという。後に堺正章がひばりの追悼番組で話しているが、当時堺自身は「どういう意味の最後かは定かではないが…」と話している。かなり窶れ青ざめ透き通り、脚の激痛と息苦しさで歌うときは一歩も動けず、直立不動での歌唱であった。立っているだけで限界のひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括っている。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁久彌からの激励のメッセージを受けると、自身の最期も悟るかのように、ひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。   (つづく)


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